自立と恐怖

雑報 星の航海術

昨夜、“お金を稼ぐことが生きることであり、稼ぐことが給与を貰うことを意味し、そして、それが自立なのだとすっかり自分を手なずけてしまったのだ”
“恐怖を間に挟んで貨幣をやり取りするようになったのはなぜだ?本来の交換はそうではなかったはず”

とツィートしたところリプライやメッセージをいただいた。

僕自身がそうであるように、こうした問題が気にかかる。その刺さり具合を棘のように感じる人が多いのだと思う。

ここで僕が自立や自由について滔々と語ったところで、それは昨今流行りの生き方や働き方の喧伝に努める人と変わらない。そういう役回りを否定するわけじゃないけれど、言葉過多になる自分を知っているので、体験という自分の体を使っての賭け、計測を試みることなく、巧みにしゃべってしまったら、それじゃ僕は鉦や太鼓を鳴らしてのチンドン屋の道中と変わりはしない。おしゃべりは慎まなければならないときだってある。

体験から言えることはひとつ。自分の能力を疑い、恐怖を抱えて生き始めたとき、自分よりもシステムを信頼し、そこに依存するべく自分を馴致させていく。信頼と依存といえば聞こえはいいが、実態は奴隷だ。
現時点の自分の脳内だけで考えられること(それも他人の思考を参照にしたものだ)から離れることを恐怖する。

世界は常に概念の外にあるというのに。この倒錯に気づくことがたぶん自立の第一歩ではないかといまのところ思う。