スサノオの息子

自叙帖 100%コークス

まともに音楽を聴き始めたのは、ジミ・ヘンドリクスの「ヴードゥー・チャイルド」に衝撃を受けてからだ。1968年に発表された曲だから、もう43年も経つのだが、いまなお古びていない。それどころか当世に耳にする凡百の音を圧倒している。
Youtubeにアップされてもいるだろうから、機会があればぜひ聴いてもらいたい。たぶん、僕と同じようにギターのリフを口まねしたくなるはずだ。

親しみを込めてジミヘンと呼ばせてもらうが、彼はこう歌う。

Well, I stand up next to a mountain
And I chop it down with the edge of my hand
Well, I pick up all the pieces and make an island
Might even raise a little sand
I’m a voodoo child baby I don’t take no for an answer

意訳すればこういう感じだろうか。いや、英検3級だから意訳すら間違っているかもしれない。そこはご愛嬌。

そうさ、オレは山のすぐそばに立って 雑作もなくそいつをなぎ倒すんだ
そうさ、散らばっちまったそいつらを拾い上げて島をつくるんだ
砂粒ひとつ残しやしないぜ
オレはヴードゥーの息子さ いやとは言わせないぜ

ワウの効いた音を聴いているうちにオーバーラップする光景がある。父が幼い僕に話したときの記憶が蘇る。彼はこう言った。

「オレのオヤジは…、オレが物心ついた頃、もうオヤジはオヤジではなくなっていた」

この言葉を聞いたのは、かなり昔の夏の暑い日、おそらく親族が集まり、儒教式で行う祭祀の日だったように思う。
祖父とは面識がない。1930年代の初頭に日本にやって来、僕の生まれるはるか前に亡くなっていた祖父について、父に特別尋ねた記憶がない。それだけに父の唐突に切り出した言葉は少し不気味に思え、「それはどういうことか?」と尋ねることを控えさせた。そのことだけははっきりと覚えている。

字面を追えば「オレとオヤジ」のミルフィーユのごときパイ重ねであり、韻を踏んでいるわけでもなく、特別の意味をなしていない。

けれども、「オレのオヤジは…、オレが物心ついた頃、もうオヤジはオヤジではなくなっていた」を口にし、しばらく繰り返すうちに、なぜだか不穏なグルーヴが奏でられ始める。
どこなく憤怒の色合いを帯びていく、「ヴードゥー・チャイルド」のような素手の暴力。字義からはわからない濃い意味が立ち上がる気配がする。

祖父は晩年、アルコール依存症となり、最後はメチルアルコールにまで手を出したという。その頃になると認知症も始まり、粗相もしていた。
子供七人を抱えた赤貧の暮らしは、「まされる宝 子にしかめやも」という猶予を祖母に与えなかった。
極貧の生活にひしがれていたこともあり、ついに祖母の忍耐が限界を超えたのか、正気を戻させようと棒もて祖父を打擲したこともあるという。祖父は哀号と泣きもしたか。間近にそれを見ていた父もまた泣いたのか。

次第に人の輪郭を綻びさせ始め、紡ごうにも糸の乱れの苦しさだけが手元に残る。それを指して父は「もうオヤジはオヤジではなくなっていた」と表したのだろう。
この言葉遣いに幼かった折の父の胸底に宿ったであろう哀切と怒りの混交した激しさを感じる。その向かう先は、祖父ではなかったはずだ。
不遇と貧困も含めて、「いまここにいること」を是として飲み込まなくてはならないことへの悲憤が先立ったろう。

僕の物心ついた頃から父は憤怒の人だった。なにせ歯ぎしりし過ぎて奥歯が磨り減ったくらいなのだ。

ある日、学校へ行く途中、信号が変わって歩き出すと陸橋あたりからものすごい視線を感じたので、見上げると仁王立ちの父がいた。なぜ?と思う間もなく、姿を消した。
その夜、帰宅した父は「ちょっとここに座れ」と僕を呼ぶ。基本的に父と話す際、僕は正座をさせられる。世間ではそれを会話と言わず説教という。

「おまえはなぜ横断歩道を渡るにも、人に先んじて歩こうとせんのか。そこにおまえの生き方の甘さがある!」

正座した僕のまわりに広がる燎原の火。

虚弱で外で遊ぶことも少なく、本を友とし『古事記』や『日本書紀』『風土記』のページを好んで繰っていたことがある。あるときこれらを読んでいて気づいた。「うちのパパはスサノオだ」と。

20代後半にして禿頭となり、岩石と見まがうような顔をした男を「パパ」と呼んでいたことなど、いまとなってはお笑いぐさなのだが、パパ=スサノオ説に合点がいった。痛いほど膝を打った。

「なるほど、それで人格の初期設定が怒髪衝天なのか」と。すでに髪の毛はなかったけれど。
父の憤怒の系譜を想像する。
彼が青春期を送った1950年代、在日コリアンが大企業と零細企業とを問わず日本企業に就職するのはきわめて難しかった。門前払いの事情を当然として、学校も就職斡旋を一切行わなかった。就職することがかろうじてできても理不尽な人事が横行した。怒りの火種は大きくなる。

父はやがて会社を起こし、「雑作もなくそいつをなぎ倒す」勢いで商売に励み、「散らばっちまったそいつらを拾い上げ」る要領で家族を形成した。富と力の増大はしかし、彼に穏やかさをもたらすことはなかった。

日本社会で確たる位置を得ないことには、まともな生活は始まらない。生活の確保を戦いだと捉えていた父にとっては、始めてしまった戦いとそれへと背中を押す怒りを鎮めることなど考えられなかった。

おかげで僕は裕福な暮らしを送れた。しかし申し分ない暮らしは、どこかで怒りの炎に縁取られた生活を送るということを意味し、家族の成員の火傷をともなうものでもあった。

在日コリアンの二世である父には、「父たるモデル」がない。食卓を囲むことや一家団欒を味わったこともない。故郷からも家族からも放逐されたところから素手で世界をつくり始めた。

僕は三世にあたるが、母方の親族とは縁が切れ、父方の祖父を知らず、一族との関係も希薄だ。地域に在日コリアンもおらず、親しかったのはむしろドイツ人やインド人だった。

僕のルーツは、ヴードゥーの息子のようであり、スサノオである父からいきなり始まる。その父が僕を雄大と名付けた。
起業した会社にも「大一」とつけたくらい、大きいこと、いちばんが好きだった父の趣味が反映された命名だが、その期待は予め裏切られていたとしか言い様がない。
彼の怒りの延焼をうながす火種として僕は生まれてきたことになる。