誰がため

雑報 星の航海術

先日、ひさしぶりにカラオケへ行った。「愛燦燦」なんかを選んだのだが、ついでにMr.Childrenの「タガタメ」を歌った。

Mr.Childrenの曲ってメロディはすごいなぁと思うことが多いけれど、そのクオリティと比べたら詞に不満を感じることも多い。たとえば「名もなき詩」で“ダーリン”と“脳足りん”をかけるような、それで韻を踏んだと了解できるセンスには、ぐはぁ…としか言い様がないのだ。

「タガタメ」の出だしはこうだ。

 ディカプリオの出世作なら さっき僕が録画しておいたから
もう少し話をしよう 眠ってしまうにはまだ早いだろう

わりといい感じでしょ?で、さわりになるとこうなる。

子どもらを被害者に加害者にもせずに この街で暮らすため まず何をすべきだろう?

被害者、加害者という字面も語感もわりと硬い言葉を登場させる前に、その言葉で代表させる前に何かやりようはなかったろうかと思う。
でも、この歌を聞くと涙腺を直撃されるんですよ。

とりわけ

この世界に潜む怒りや悲しみに あと何度出会うだろう それを許せるかな?

になるとダメだ。ヤバい。

たぶん、「愛燦燦」にしてもこの曲にしても選んだのは、最近の生活保護に関する報道、というよりバッシングに強烈な怒りと悲しみを覚えたからだ。生活保護の受給世帯は、寡婦と老人と疾病が多い。他罰的な言葉からうかがえるのは、母と己の行く末に厳しいことだ。

つまり過去も未来も否定するということだ。とりわけ「これから先」を担う子どもたちの希望を奪うような、「何があっても存在していいんだよ。というより、存在することに誰の許しもいらないんだ」と言えない社会が正常なのだと思わせる言葉を大人が吐いていったいどうするというのだ。

それにしても民衆自らが弱い者を率先して叩くことは、権力者にとって最も都合のよいことだが、なぜ権力にとってお誂え向きのことをしでかすかと言えば、それは私たちが権力を欲するからで、権力に預かれないことによる劣情が権力へのおもねりを生んでいる。

スワニスワフ・レッツのアネクドートじみた詩に倣わなくてはいけない。
すべては人間の手の中にある だから ひんぱんに手を洗うべきなのだ

権力への阿諛追従で明らかになるのは、私たちが思い描く権力とは、他人に苛酷な運命を強いることのできる万能さだということだ。
生活保護は恩典でも施しでもなく国民の権利だ。不正でもない受給を非難して返納させ、いっそうの困窮に陥らせることにやんやの拍手喝采をしたとして、いずれ同様の立場に追い詰められ、首を絞められるのはそうして賛同している側だということは、ほんの少し精緻に見ればわかる。

正義の貫徹を求めているというよりも、抜け駆けは許さないとでもいった物言いに思うのは、嫉視と憎悪をあからさまにしても最早恬として恥じなくてもいいという態度であし、僕はそこにまったくの美のない、荒廃した風景の広がりを思う。

こけつまろびつの、ともすればほどけそうになりそうな暮らしの重みにひしがれている人がいる。地を這う暮らしをせざるをえない人を怠惰だと詰る言葉の群れに、端的に優しさと美が足りないと感じる。

冒頭に怒りを募らせてしまったと書いたけれど、怒りは情熱に転嫁しないといけない。
他人の提供した絶望的な筋書き通りに絶望したら、自前で考えることを自ら剥奪することになる。思考を消去しちゃいけない。

話は脇にそれるけれど、先日、六本木へ行った。
いつ訪ねても瘴気漂う街に感じて居心地はそうとう悪いのだが、今回気づいたのは高層ビルが居並んでいるわりには、異様に平面的に感じたことで、直線で均された舗道や壁に構成された空間を歩いていると、自分の中から立体的な感情や思考が消去されていく感じがして、ちょっとおもしろかった。
視覚からの刺激は多いが、どんどん自分の中が単線的になっていく。抑揚が失われていく。

そこでわかったのは、論理にしても単線的なもので世界は構成されているという錯覚が、このいまの社会の他罰的な言説に溢れている現状をつくりだしているんじゃないかと思った。

他罰的な言葉はどれほどやり取りがあったとしても、保守すべき信念とその通り道の往復でしかないのでいっこうに広がりがない。予め定まった単純さに照らしてしかものを言うことができない。つまり思考を奪われた状態に自らを追いやる。

思考は「それは〜である」といった直線の時間配列の形でしか表明できないから、ある前提をつくった途端にきわめて抑揚のない論理を紡ぎ出すこともできてしまう。

でも、線に手を突っ込んで拡張すれば、 無数の「〜ではなかった」可能性を含んだ豊かさが見えてくる。
アスファルトに埋められた道だって、隙間にタンポポは生えているし、風だってそよいでる。目を向け、耳を傾ければ、ノイズをつかまえることができる。

直線の整然さは、「世界は決してそういう姿をしていない」はないことを知るためにこそある。
つまり、自分がある種の信念につかまえられそうになった瞬間というのは、「ベタに見るな」というメッセージの訪れでもあるのだ。

僕は思考の源の言葉についてもっと考えたい。
言葉は音で、それはこの空間に響く。音は伝播していく。この可能性を自ら閉じるのは、私があなたに何かを伝えたいと思ったときに帯びてしまった熱が音となって現れた、その豊かさ、奇跡から目を背けるような行為だ。

私たちが生きているこの世界は、決して社会という制度に還元しきれない。社会の外に広がる何かが私たちを生んだのだから。
訳も分からず産み落とされてしまった世界は、絶えず流動的で心もとないとも見えるけれど、決して固定されることのない豊かさを孕んでいるとも言える。

現実は常に流れており、信念や信条は砂で築いた楼閣に近く、それは波の絶え間ない運動の前に脆くも崩れる。
人が信念について保守でありえるのは、自らを言葉によって縛ったときだけだ。でも、そんなことはできやしない。

言葉は音で過ぎ去ってしまった。過ぎ去った幻影で縄は結うことはできない。

言葉は自らの内に響く音の広がり。だからこの広がりを信念や信条の寸法に切り詰める必要はまるでない。
鮮やかな音の広がる場所に僕らは生きているのだから。