「ル・アーヴルの靴みがき」

雑報 星の航海術

先日、アキ・カウリスマキの新作「ル・アーヴルの靴みがき」を観た。

舞台はフランス北部の港町ル・アーヴル。靴磨きをして生計を立てるマルセルと妻のアルレッティ、犬のライカ。貧しくも幸せな暮らしを送る夫婦の日常に突如現れたのが、アフリカから密入国した少年イドリッサ。マルセルはイドリッサを自宅に匿うのだが、それと同時にアルレッティは病に倒れ、余命いくばくもないと告知される。

こういった筋立てで、詳しくはぜひとも劇場に足を運んで見て欲しいのだが、僕がたいへんおもしろいと思ったのは、徹底的な善意が物事を推し進め、障害をパスしていくところだ。(これは「世界最速のインディアン」と似ている。ところで以前は敵は外部からやって来る内容の映画が目白押しだったけれど、僕の拙い映画経験からすると「トータル・リコール」からこっち、「ありえたかもしれない世界を描く」内容が繰り返し描かれている気がするのだがなぜだろう)

善意は貯蔵庫に保管してあるようなモノで、余裕のあるときに他人に与えることができる。つまりは気まぐれさと経済力次第で他人に分配できるものだ、と思ってしまいがちで、かくいう僕もそうだ。

当たり前だろ? 人生は世知辛いのだから。そんな考えからすれば、「ル・アーヴルの靴みがき」など、あくまで現代の御伽噺であり、劇場で鑑賞するつかの間に味わえるファンタジーだと思えてしまうだろう。
でも、僕は「あれ、この映画の世界のほうがリアルなのかもしれないぞ」と思わされてしまった。それくらい強度があった。つまり現実を生成する力があるということだ。

御伽噺は、現実にありえそうもない架空の、僕らが「そうあって欲しい」と願った内容がつくりあげた空想に過ぎない。たぶん、そういう理解がされているだろう。御伽噺では、勇敢な人がへこたれることのない意志と疲れを知らない熱情をもって人々のあいだに奇跡を起こす。

聞き手は、あらゆる抵抗を越えていく登場人物の姿に快感を覚えつつも、あまりの手応えのなさを同時に感じもする。なぜなら挫折も後悔も葛藤もそこには存在しないからだ。
あらゆる困難さは、やすやすと乗り越えられていく。乗り越えられるために用意されているかのように。だから人はそこに平坦さを感じる。現実は挫折と後悔と葛藤に満ち満ちているから、あまりに陰影に乏しく思う。

だがしかし、もしもその奇跡にも思える物語の只中に自分の身を置いて、それらを体験したとき、とうてい奇跡的な出来事が平坦であるわけなどないことに気づく。めちゃくちゃ抑揚と起伏に富んだ、ただならぬ事態が進行していることを知る。

たとえば次々に形を変える波をさばくサーファーを結局のところ言語で描写すれば、「波に乗っている」と凡庸にしか表せないが、刻一刻と変化する波の上を滑空し続けるのは、おそらく現在のコンピュータの処理速度ではかなわないような瞬間的な計測の連続で、傍目には普通に見えることほど奇跡的な出来事のなめらかな生起である可能性が高い。

波は動画のようにフリーズしたりしない。自然は常に現在進行中で繰り返しがない。波に挫折も後悔も葛藤もないだろう。そこに抵抗の生じようもない。つまり抵抗とは人間の認識上に発生する出来事で、作為の産物だ。

そうなると僕らが現実と呼んでいる「挫折と後悔と葛藤」に溢れかえった世界のほうが、きわめて平面的だと言えないだろうか。挫折すべく、後悔すべく、葛藤すべく行動しているから、そうなっているだけの入力と出力の振れ幅の極めて少ない、平板な世界ではないだろうか。
挫折するのは期待をするから。後悔は願望通りに物事が進まなかったから。葛藤は想定と現実との違いに板挟みになるから。よくよく見れば、それは現在進行中で繰り返しのない世界の出来事ではなく、僕らの脳内でのみ起きている。つまりは妄想の中で起きている事柄に過ぎず、それを現実だと思い込んでいるかもしれない。

僕らは抵抗感のある現実のほうにリアルさを感じる。逆境にこそ生きがいを見出し、それを乗り越えた姿に奇跡を感じる。逆さまなのだ。何事も穏当に過きることのほうが当たり前なのではないか。太陽ががんばってのぼらないように。

そのことを端的に表すのが作中の刑事ではないかと僕は感じた。
彼は密入国した少年とそれを匿うマルセルにたびたび目配せをする。公的な時間と私的な時間を分けて接触しては「警告」する。それは「法律を逸脱するようなことするな」ではなく、「うまくやれ」という警告で、そのことをあからさまな言動ではなく、振る舞いの中で見せる。

ルノー16。いま見てもかっこいい。

たとえば身に着けているコートに手袋という映画の登場人物のようないかにもな刑事っぽい格好、流線型のパトカーが主流の中、フロントグリルの意匠にこだわりを感じさせる70年代のルノー16、そしてレストランで注文するワインは、2005年物のメドックといった具合に、振る舞いの中で権力という一般の生活とは異なる次元に所属しつつも、生活世界の豊穣さにつながっている様子を示す。

彼もまた善意をつなげる役回りを担いたがっている。なぜなら現実は、たえずそういう意志のもとで紡がれ続けるものだから。だとすれば、「ル・アーヴルの靴みがき」はファンタジーではなく、見る目をもたないものの目には見えないただの現実の姿に過ぎないのではないか。そんなふうに思わされた。