僕の好きなおじさん

自叙帖 100%コークス

いまよりずっとずっと貧乏だった頃、神戸に帰省し、街をぶらついていたら窓にスモークシールを貼った銀色のデカいベンツのSクラスがツーっと横付けした。

稲川淳二ならさしずめ「やだなぁやだなぁ、怖いなぁ怖いなぁ」 というところだ。

ウィーンと窓が下がるとパンチパーマがちらと見えた。
「あ、ヤクザだ」と思い、「ベンツなんて目に入ってませんよ」という態で前を向いて歩こうとしたら

「おい、タケヒロ!」と呼びかけられた。タケヒロというのは、僕の日本名だ。

え?と思い、振り返るとS叔父が顔をのぞかせ、 手招きしていた。
顔は凶暴な豊川悦司みたいで、さらにパンチパーマだから、 どこから見てもその筋の人に見える。

父方には7人の兄弟がいるけれど、その過半数は何をしているのかわからない人ばかりで、幼い頃から叔父や叔母たちがどうやって暮らしているのか不思議だった。

S叔父もやっぱりそうで、前まで国産車に乗っていたはずなのに、久しぶりに再会したらいきなり数千万円もするベンツに変わっていた。

「東京でえらい苦労してるらしいな。元気にやってんのけ」 と叔父は言う。

生まれも育ちも京都なのに、自分のことを「ワシ」といい、 語尾に「~け」がつくなど、はんなりとした京都弁の匂いは微塵もなく、大阪の河内弁にどちらかと言えば近い。

叔父はポケットを探り、何やら取り出すと僕に握らせた。
「それでうまいもんでも食えや」と言い残し、車を走らせ、行ってしまった。僕の手には札束が残り、数えてみると30万円あった。

父方の一族は、前近代というか“土人”というか『楢山節考』の世界をリアルに生きているというか、とにかく僕からすれば理解不能な人が多かった。

そんな中、やっぱりS叔父も粗野ではあった。戦後の混乱期、まだ子どもの頃だろうけれど、電柱によじ上って電線をぶった切ったり、人の家の銅の雨樋を剥がしては、売り払いとか、そういうことをしてしのいでいたらしい。
いまから見たら「やっぱりアイツラは」みたいな文言でくくられるような行為だろうが、僕は少年だった叔父の自前で生きていくことの問答無用さみたいな迫力をそうしたエピソードに感じる。

「己の存在を実力で確保する」ことに躊躇わない人たちに僕はときどき眩暈を覚える。それはきっと僕にはない「どっこい生きている」といった、生命の賦活を感じるからだ。

だからといって叔父は粗暴な人ではない。カカカという笑い声が耳に心地よく響いて、小さい頃から何か話してみたいけれど、見た目がおっかない上に何を話していいかわからないから、ずっとそのままで来た。

叔父が入院し、京都へ見舞いに行った。顔を見るのは神戸でばったり会って以来だ。

ベッドに横たわる叔父は競輪中継のテレビを見ていて、僕を見ると イヤホンを外し、「よう来たな」と言い「予想外の病気でショックやわ」と続けた。

異様にやせ細った体にびっくりしたけれど、それより驚いたのは、その顔つきの変わり様だった。アクが抜けたというか、以前韓国の田舎町で柳の下で白い韓服を着、煙草を吸いつつ談論している、イイ顔のお爺さんたちを見かけたけれど、その輪に溶け込んでもおかしくない。そんな穏やかな顔になっていた。

叔父はやっぱり「東京で苦労してんのけ?」と切り出したので、 僕は「はい。相変わらず赤貧洗うが如しです」と返した。

「そやけど金を稼ぐことに必死になるのは空しいもんや。弱い奴が金に執着するんやで。精神的な潤いがないわ。あんたはそうやないかもしれんけどな」と言った。

その言葉を聞いたとき、叔父は叔父で僕としゃべりたかったのかもしれないなと思った。

それからしばらく互いの近況について話した。テレビをふと見ると、競輪選手たちがスタートしようとしていた。

「わざわざありがとう。もう遅くなるから、はよ帰り」
それは中継の続きが見たいのか、照れ隠しなのかわからないけれど。

「病には勝たなあかんなぁ。こんどまた家に遊びにきいな」と叔父が言ったので、僕はちょっと躊躇って叔父の腕に触れ、それから握手して別れた。

生まれて初めて叔父の体に触れたような気がする。