2010年12月27日 vol.3

自叙帖 100%コークス

僕はホームレスについて「努力しない敗残者である」と思ったことはないけれど、こういうふうには思っていた。人生はいつも上り調子であるわけもなく、ひしがれて生きざるを得ない人々もいる。生きるということは暴力に晒されていることでもあり、基本的には悲惨である。自分もいつ落魄するかわからない。

坂口さんの話を聞くに連れ、僕は自分のものの見方が、それこそ彼の言うところの“解像度”がまったく低いものであったと気づいた。

彼が出会ったホームレスは、僕らがゴミと呼ぶところの「都市の幸」から鉱物=貴金属を探し出しては売り、ホテル住まいをしている人もいた。都市における「狩猟採集」だと彼はその行為を名付けた。

取材も中盤に差し掛かった頃、坂口さんは「普通」に暮らしている人たちが自身を「不幸だ」と感じており、その人の多さに気づいたと話し始めた。

「自分のことを不幸だと感じている人たち」とたくさん出会いました。これは路上生活者と会う中では、まったくなかった体験です。彼らのうちに「自分のやりたいことをやれない」などと嘆いている人はひとりもいなかった。
仕事をして昼からお酒飲んで好きな音楽を聴いて、俳句を詠む暮らしをしている人に、「あなたは幸福なんですね」といったらその人は「幸福なんじゃなくて生きているだけだよ」と返した。その時、僕はピカーンと来た。つまり「なんで人は生きている理由や意味を探してしまうのか」と思ったわけです。

僕はホームレスを見て「いつ自分もそうなるかわからない」と思ったわけだが、これは他者に自分の姿を見ていただけで、彼らを見ていなかった。ただ風景のように見ていただけで、風景ではないナマの存在と出会っていなかった。
目の前にいる人の暮らしを見るのではなく、自己憐憫を掻き立てるために彼らを見ていた。これは彼らを落伍者として否定し、生き死に勝手と放置する無関心さとどこが違うのか。

しかも彼らが発した「幸福なんじゃなくて生きているだけだよ」に、迂闊にも「どうして僕は獲得することや所有することを人生だと思ってしまうのか?」と考えてしまった。

またしても「僕」で彼らのことではなかった。これは共感ではない。徹頭徹尾、自分に引き寄せた、個人的な解釈を出来事だと錯誤してしまう、鏡に自分の顔しか見て取らない、いわば自分地獄だった。

そういう心中の述懐をよそに、坂口さんはこう続けた。

つまり、彼らは「おまえは生きてないんだろう」と言っているわけです。彼らは生きる=幸福だと言っている。生きることの幸福さに気づいている。
「生きる意味は何だろう?」と問う人たちは、幸福ではないところから人生が始まっている。
僕には2歳の娘がいますが、なぜ彼女が笑っているかといえば、僕が幸福だからです。僕が幸福でなくて彼女が幸福でありえるでしょうか?

僕はずいぶん思い違いをしていた。

所有や獲得がどうして生きる意味に転嫁してしまうのか?と問う時、やっぱり「もの」に目が向いていた。それはお金や家や車、知識や情報だとかを「とにかく得たい」と誰に命じられたわけでもなく、焦慮とともに目指してしまう、あの心のありさまを問うてはいた。

がしかし、その問いの射程は生きることそのものに届いてはいなかった。自分の外の「もの」に向かうことは問題にしても、その問いそのものが既に自分の外のことであった。
そう、僕は一度として現に生きていながら、“生きることそのもの”の根底に触れたことがなかった。これは恐ろしいことだ。

自分の外のものを追いかけるといったことが生きることだというように、自分の人生を加工してしまうのは、一度たりとも「ただ生きる」ことをしたことがないからだ。

ただ生きる中で何が必要なのかを考えたこともなく、そのための術を発見したことも磨いたこともなかった。

つまり、ものを所有することを求めていたのは、ほかならぬ自分がそれなしに生きていけないからで、そうでありながら不満を抱えているという幼い精神のままでも生きてこられた事実に愕然とした。