博多の思い出1

 ヤクザ業界における「ロッキング・オン・ジャパン」と言われる(といっても、僕が勝手に言っているだけだけど)「実話時代」の仕事で福岡へ来たのは、たしか2004年くらいで、どうしてかというと、ここ福岡は中学生が学校に拳銃を持込み、てっきりモデルガンだと思った教師が取り上げ職員室で撃ったらホンモノだったとか、ロシア製の自動小銃やマシンガンを用いての抗争や組事務所の倉庫に対戦車ロケットを隠し持っていたなど、まあ熱い話題に事欠かない。そういう土地で一本独鈷でやっている組の親分は何を考えて切り盛りしているのか?というインタビューのために博多へ来たわけです。

 待ち合わせは、とあるホテルのラウンジでエントランスホールに入った途端、たなびいとるわけです。
たなびくと言えば、「春霞たなびく山の桜花」だとてっきり思っていたけれど、暗雲がダークスーツを来た一群の上に漂っているわけです。

 「おつかれさまです」と若い衆に向かえられ、ひと通りの挨拶を終えると、ホテルから車までにレッドカーペットこそないけれど、アカデミー賞の会場へ向かう際の人垣みたいに、脇に若い衆が立ち並び、僕らは客人として用意された車に親分さんとともに乗り込む。道路に走り出た別の若い衆が後続の車に頭を下げて止めて、僕らの乗った車が走り出すまで見送る。

 僕は周囲の車の運転手の表情を見ていたけれど、どうも「そういうもんだ」と理解しているような感じがあった。「そういうもんだ」というのは、社会というのは堅気による堅気のための法や秩序で成り立ってはいるけれど、表があれば裏があるように、それとは別のロジックや流れというものが、この社会には歴然とあるんだ、ということへの同意がなされている。そういう了解の仕方のことだ。

 それは健全ではないと暴力団は撲滅しなくてはいけないなどと言われたら、僕はそれは健全にとりつかれた病だと思っている。
 法という明確な言葉でこの世を仕切っていくことに血道を上げる人がいるのだが、明確という語が表すようにこの世にあまねく光を差し掛け、ほの暗いところを追いやり、グレーゾーンをなくすことが良きことで正しいというならば、一本調子の考えで世の中を均していく暴力以外の何者でもない。

 「これが良きことであり正しいことだ」という考えしか許さない社会はまったく健全ではない。こういうことを言うと、「反社会的な存在を許すのか!」と怒る人がいるのだが、僕だってヤクザが好きかと言われたら、あまりお近づきにはなりたくない。
 けれども「反社会的な存在を許さない」というとき、頭の中で彼らの存在を消しているし、それを正しいし、まっとうなことだと思っている。頭の中で否定しきれることが恐ろしい。

 あいつらときたらろくでもないし、迷惑しかかけないし、人の弱みにつけこんだ生き方しかできない連中だ。確かにそういう人もいる。それはいわゆる堅気の世界のろくでもなさと利己的で人の弱みにつけこんだ生き方をすることが良いことだいう身振りに合わせて存在している。いわば鏡の存在だ。
 堅気の社会は努力しない人間はダメなやつで、自己責任が大事で、競争に負けるということは能力がない証なのだということを穏当な言い方であれ、同様のメッセージを日々学校、職場、家庭で教育され続けている。表の世界が恨みつらみと葛藤と他人を否定する暴力に満ちている。陽が強くなれば影もまた濃くなるように、己に似姿を僕は彼らに見る。

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