コスモポリタニズムとレイシズム

 コスモポリタニズムという語ににわかに新味を覚えた。

 きっかけは当世に吹き荒れるレイシズムについてつらつら考えたことにあるが、自民族中心主義を遥かに越え、憎悪を逞しくするあれらに対抗するに世界主義をと言えば、夢想家の戯言に過ぎると嗤われることは百も承知だ。

 でも私は夢想家ですよ。だから抵抗それ自体には興味がなく、ただ強度のある空想が新たな現実を構成するのだと信じています。いくら夢想だと嘲られても、熱を帯びて語られていた時代があったことを思うと、あんがい旧いの一言で片付けられない何かを感じる。

 とはいえ、神戸生まれの私はコスモポリタンと聞くと、まずは1926年、ロシア革命から逃れ日本に亡命したヴァレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフを思う。バレンタインにチョコレートを送る習慣を日本に導入したとされるのは、モロゾフが神戸に創業した製菓会社モロゾフで、その後の経営陣との悶着で彼はモロゾフと袂を分かち、コスモポリタンを創業する。

 いまは廃業してしまったコスモポリタンだが、往時は高級菓子として神戸市民に馴染みがあった。つまりはコスモポリタンは、異国情緒を思わせる言葉の響きとチョコレートの甘い記憶として私の傍らにある。

 コスモポリタンはコスモポリタニズムを掲げる。モロゾフにとっての世界主義は何を意味したろう。

 革命後に誕生したソビエトには思い入れのひとつもなく、かといってモロゾフは日本国籍を取得することもなかった。帰化するには日本式に改名する必要があり、それに抵抗を感じたからだという。彼は生涯、無国籍だった。どこにも根を持たず生やさない。

 モロゾフという己の名を冠した会社が共同経営者に掠め取られた後、立ち上げた会社がコスモポリタンだ。社を追い出されたのであるから、同じ名をつけることはできないにしても、モロゾフからコスモポリタンといった、個人の名から世界をひとつの共同体と見る立場を名としたわけだ。
 固有名を失い世界市民へ、と言わんばかりのこの道行きは、ある種の物語を感じさせないではいられない。失うことで世界市民の地平に立つことが初めて許されるとでも言うような。

 では何を失ったのか? 言うまでもなく国を、故郷を、よすがにする根を失ったろう。そうした痛苦を伴う喪失体験の字面を眺めるのではなく、それが身に刻まれた出来事だと、わずかでも体感するとき、どれほどの時間が経とうとも私はそこに痛みを感じないではいられない。

 だがしかし、痛みが膿んでしまうと厄介だとも思う。
 人は痛みのあまり失った国、忘れがたき故郷、つまりは過去に埋没するほうに己を歩ませることもできる。どうしてこのような憂き目に遭わなければならないのか。その思いが高まれば、「ありえたかもしれない」幻想に自己を沈めていきもする。
 痛みはやがて生々しさを失う。喪失から喪失感に移ろい、痛みを思い起こしては己を確認するための都合のいい記号として国も故郷も扱い始める。取り戻せ、奪い返せ。幻想への埋没と記号化への道は自己憐憫に人を誘う。

 思えば自己憐憫への道をまっしぐらに突き進んでいるのがレイシストではないか。彼ら彼女らはなぜか自分たちが被害者だと思っている。自己憐憫を十全に生きており、そして幻想に、記号に発情している。国家や歴史、民族を彼我を分ける記号として扱っており、現に味方でなければ敵だと、世界を記号の二極に分けることにひたすら専心する。

 国も故郷も記号に丸め込まれるような代物ではない。それは私の生きた記憶、私の情感を育てた風景そのもの。国家や故郷は、“国家”や“故郷”という言葉に収斂などされない体験であり、為政者やならず者の思惑の寸法に切り詰められるようなものではない。

 レイシズムは幻想に憎悪を募らせる。幻想というのも、人は属性など生きていないからだ。どこの国に生まれようが、どの民族であろうが、記号など生きておらず、常にあるのは日々の暮らしであり、ひとりの人間であり、高尚さもあれば卑俗にもなり、本当のことを言いもするが嘘も吐く。崇高さと悲惨さを体験して死んでいくひとつの魂を持った肉として生きている。それが現実の一切だ。

 現実は身も蓋もなく善いとも悪いとも言えない。生きていればありきたりでしかない、この理屈以前の事実が彼ら彼女らはわからない。理解を遠ざけるのは、彼らが「自分は被害者である」という自己憐憫の物語に陥っているからで、敵は彼ら自身なのだが、そこに気付くには己で耕した空虚さを見つめなくてはならない。かろうじて掴んだ生きがいを手放す体験は、死を思わせる恐怖そのものだろう。

 そうして思う。コスモポリタニズムが熱を帯びたのは、国家がまとわせる湿気の高い憐憫に満ちたロマンを遠ざける乾いた思想であったからではないかと。
 
 世界主義は乾いている。
 私の生きた切実な記憶、私の情感を育てた大切な風景。確かにそうだとしても、これらが固有の守るべきものとなって情緒纏綿さを帯びた物語になったとき、私もまた排外に身を乗り出すだろう。記憶は記憶、情感は情感。それらはもはや過ぎ去った。乾きとは、現実を見ることだ。
 この時代、乾きが必要だ。自己憐憫の物語が人生を駆動させると思い込み過ぎている。

 モロゾフは生涯、無国籍だった。
 国家を選び取れない無/国籍なのか。あるいは国家に信奉を持たない無国/籍だったか。乾いたコスモポリタニズムは国籍の刻印すら否定する後者を取るだろう。失ったものは国であり故郷であったが、それへの郷愁はコスモポリタニズムには至らない。

 「失うことで世界市民の地平に立つことが初めて許されるとでも言うような。では何を失ったのか?」と先に問うた。何を本当に失ったのかといえば、痛みを過去を失ったのではないか。

 失うとは喪失感に道を開いているとは限らない、それは喪失感という足跡を残さず、痛みを過去を憐憫を手放すことにもつながっている。
 その乾いた、手応えのない少し寂しい感じは孤独ではあるかもしれないが、存外悪くないと思う。

 

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