私の名を呼ぶ声

 防災マップで遊んだ一週間後、熊本で地震が起きた。余震と呼ぶには頻度の高い地震が連日続き、倒壊した家屋の映像が報道によって映し出されるなど、甚大な被害が報告され始めた。住人が不安な日を送る中、折しもSNSでは「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人の泥棒に気をつけろ」といった類の根も葉もない流言飛語を意図的に書くものが大量に現れた。問い詰められたものは「ネタ」だと開き直り嘲笑う。

 関東大震災の折に流布されたデマゴギーによって朝鮮人をはじめ中国人、社会主義者や標準語とは違うイントネーションを怪しまれた東北出身の日本人が殺された。

 当局による虚偽情報の宣布の根っこにあったのは悪意ではなく明確な殺意であった。虚偽の情報の目的は事実を偽るところにはなく、人間を人間としてみなさずに済ませるところにあったろう。つまり人間ではないものとして偽らせれば殺して燃してもよいのだと思い込むことができる。

 

 私は人間だ。私ひとりがこの世に生きているならば、あえて言葉にして確認する必要もない。

 私が人間であるとは、人間のあいだに生まれ落ち、「あなたは人間である」と迎え入れられる体験を持って初めて得られる実感だろう。この実感は学校や企業で良い成績をとったとか地位や名誉といった社会における序列に組み入れられて得られるものではない。

 私の面前にいる人、隣人によってもたらされる。社会と呼んでしまうような大層なものの手前にある、人と人との関わりの中で私は私であることの肯定感を覚える。

 大人になり社会と折り合いをつけていく術を学ぶにつれ、私たちは子供の頃に習った「人をむやみに傷つけてはいけません」程度のことも守れなくなる。

 生きることが社会の中でうまく立ち回ることとぴったり重なっていくほどに社会人としての自覚が高まる。その分だけ私たちは眼前の人をただの人間として扱わなくて済むようになっていく。

 私の住まい近くのパイ屋や居酒屋、マンションの住人らは、どうも私のことを韓国人だと思っていない節がある。
それは日本語が巧みだから日本人だと錯覚しているのではなく、名前からして日本人ではないとは認識しているが、いざ目の前に立つとそういう属性が意味をなさないような位置に私がいるからではないかと思う。それは単なる親密さとは違う気がする。何より私はそれほど社交的ではない。むしろルワンダでは加害者の多くは親しく付き合っていた隣人だったという報告も聞くと、親密さを恐ろしく感じる。

 親密さがいつ逆転するのか。その訳を知りたいかというと、そうでもない。知ってそれを行うべく努めるよりも、隣家のお孫さんの、舌足らずの「ゆんたーん」にすかさず「はーい」と応じられるだけの自分である方がずいぶん大事だと思うのだ。

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