やがて聞くであろう「兵士A」の死

 1人目の彼はどんな人だろう 1人目の戦死者Aくん
 1人目の彼はどんな人だろう 何十年目の戦死者Aくん
 彼は僕の友達 彼はわたしの彼 あれはわたしの子

             七尾旅人「兵士Aくんの歌」

 社会に対する関心はあるが、社会を変えることはできないと思っている。なぜなら既にあるものを変えることなどできないから。私が現にこうしてある姿を変えることができないように。

 社会を変えることはできないにしても、既にある現実の中で新しい社会をつくることはできるかもしれない。私を変えられはしないが、新しいことを始められるように。

 怒りが時代を変えることはあるだろう。怒りは力を生む。その力が物事を社会を技術を前進させてきた。しかし、力は人間を新たにするわけではない。人間は進歩するどころか日々後退しているのではないかと思っている。

そんな思いで世の中を観ている。この態度は行動を起こしている人に冷笑を浴びせ、軽蔑するような卑しさとは無縁だ。国会前のデモや反原発デモ、レイシストへのカウンターに参加しようとも、私は犠牲者でも加害者でもなく、まして救済者でもなく、ただこの世に存在する者として起きている事態に立ちあっている。

 私の名も国籍も仮の姿であって魂には固有名も国籍もなく、この地につかの間現れた生命現象なのだ。そういう幼い頃からの感覚がこの姿勢をつくりあげたのだろう。傍観はしない。けれども観察者であろうとしている。そこからしか見えないことはあるだろう。だからこそ事に当たってできることもあろうと思っている。

 誰しも自分のできること、やりたいことをやるしかない。だから私は“それ”について、“それ”ではない形で行うことが自分のやるべきことだと思っている。

 そのことについて改めて思ったのは、七尾旅人さんから頂いたライブ映像作品「兵士A」を観たからだ。

「兵士A」は、やがてこの国にもたらされるであろう、予告された殺害の顛末を3時間にわたり歌う。殺害とは、自衛隊員Aくんが生まれてから死ぬまで、そしてAくんが殺したひとびとのこと。

 七尾さんはある立場からある立場に反対し、否定することをメッセージとして歌いはしない。彼もまた「“それ”について、“それ”ではない」ことをしている気がしている。
メッセージ性のある歌であるとかないとか、論じたところで聞きなれた言葉の群れにしか行きつかない話ではなく、ただ歌を、紛れもない歌を歌っている。

 人間の最初の詩歌はおもわず口からこぼれた音の連なりだったに違いない。出来事を語る言の葉であり音の葉であったに違いない。そんな歌の始まりを私は「兵士A」に観る。

 ひとりの兵士Aくんとこの国の辿ってきた足どりと、時と空間を同じくしていた人間たちがしでかしてきたこと。七尾さんはそれらを歌という形を食い破る勢いで歌い続けている。

 Aくんは「何十年目の戦死者」という特異な存在であり、また彼の死以降は多くの戦死者のうちに数えられるであろうひとり。
私たちは前の世代がそうであったように、受け止めきれない悲しみを英雄として扱うことで悲しむことを己に禁じたり、命じられたままに死ぬことを崇高な行為だと受け入れてしまい、ひとりの人間として生きてきた証を悲惨さを通じてしか認められないような選択をするのだろうか。

 目の前に差し迫った参院選は改憲を争点としている。改憲がなされたならば、権力者たちは、私たちをますます軽んじることに躊躇しなくなるだろう。この国の行く末がどれほどつらいものになろうとも、一部始終観なければいけないことになるかもしれない。そんなことを思っている。

 

 

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