1923年9月1日、鏖殺

 小学生の頃、月に一度は必ず「銭湯へ行くぞ」と言い出す父を奇妙に思っていた。家に風呂があるのに、どうしてわざわざ外へ湯を浴びに行くのかわからなかったからだ。

 しかも銭湯へは街灯も暗い住宅街を行かねばならない。その時分の私は暗がりをひどく嫌っており、ともかく銭湯へ行くことを億劫に感じていた。

 あれは夏も終わろうとする日だった。湯を浴びての帰り、私は買ってもらったアイスを齧りつつ、父と家に向かっていた。オレンジ色の街灯が頼りなく足元を照らす人気のない道に差し掛かると、唐突に父はこう言った。

「昔はな、“ジュウゴエン ゴジュッセン”と言えなかったら殺されたんや」

 なぜそんなことを言い出したのかわからない。それが「15円50銭」を意味していること。そして「誰が誰を殺したのか」も父の声色でわかった。ほんの少し押し殺した、表立てない調子で話されることは、決まって私たちの出自に関することだったからだ。

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 「ジュウゴエン ゴジュッセン」と、アイスの冷たさを舌に感じつつ、ひとりごちてみる。そうして真っ先に思い浮かべたのは、父方の祖母の韓国語の抑揚を引きずった、跛行するような日本語だった。

 祖母はきっとジュウゴエン ゴジュッセンとは言えない。どうしても「チュウコエン コジュッセン」になってしまうだろう。

 家に帰るには丈高い棕櫚と洋館が差し掛ける影も濃い、次の角を曲がらないといけない。見通しの効かない角を曲がるのが嫌いだ。

 いつからかわからないが、誰かが待ち伏せているかもしれないという恐れを抱くようになった。見知らぬ人ではなく、見知った人が待ち受けており、「嗚呼やはり」と思ってしまうことが恐ろしい。

 子供時分の一夜に覚えた感慨を突然思い出したのは、西崎雅夫さんにお会いし、話を伺っての帰り道だった。西崎さんは関東大震災時の朝鮮人虐殺事件の聞き取りや追悼事業を行っている一般社団法人「ほうせんか」の理事であり、2016年9月1日に刊行された『関東大震災朝鮮人虐殺の記録: 東京地区別1100の証言』の著者だ。

 本著は1100人の証言を丹念に集めた大作であるが、このような時代にあっては、労を多くして益は少ないことも予想された。なるたけ多くの人に読んでもらう上で助力をお願いできまいか。西崎さんの知己である翻訳家のSさんに声をかけられ、「ブログでもよければ」と請け合い、西崎さんに話を伺ったものの、こうして綴るまでに一年近く経ってしまった。

 ヘイトスピーチが白昼堂々と街頭で行われ、都知事をはじめ虐殺の事実を軽く扱う。もしくは「なかった」と発言する手合いが増えている。そんな時節に宛ててものを言うのはひどく心憂い。

 荷が重いと感じつつも、いつかの機会に書かなくてはいけないと思っていたのは、西崎さんにお会いした日の眼に広がった空の青さを忘れられなかったからだ。『関東大震災朝鮮人虐殺の記録』の表紙にも使われている、荒川橋梁の背に広がる青い空。殺された人たちが最後に目にした空は、こんなにも綺麗な青だったのかもしれない。

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 「ほうせんか」の事務局のすぐ目の前は荒川だ。かつてこの辺りに架かっていた旧四ツ木橋では、民間の自警団と軍隊による虐殺が行われた。

 震災時、この橋には火災を逃れた避難民のほか、荒川放水路開削工事や街中の工場で働いていた多くの朝鮮人も逃れてきた。

 だがしかし、罹災者同士の助け合いは生まれなかった。一方の殺意に火をつけたのは「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「集団で襲ってくる」というデマだった。

 西崎さんの話で一番忘れられないのは、文芸評論家である水野明善氏の証言だ。水野氏は当時6歳、父親が人殺しに興奮する姿を目の当たりにしていた。震災直後、水野家は隅田川を超え、荒川の旧四ツ木橋西詰にやってき、疲れ果てた身を横たえるべく、橋桁をたよりに蚊帳を釣って寝入った。

 やがて橋の上から聞こえる「阿鼻叫喚」に眠りは破られた。呻き声はだんだん頭上に迫ってきた。悲鳴が収まりを見せた頃、母親が恐る恐るマッチをすった。ギャッとくぐもった声をあげ、「血よ、血よ」と叫ぶ。

「母はもう1本、もう1本とマッチをつけた。橋上から滴り落ちる液体が蚊帳を伝わる。赤褐色。血だ。私には、阿鼻叫喚のなかに《アイゴー》《哀号》と泣き叫ぶ声がまじっていようなど、聴き分ける分別などあろうはずもなかった」

 頭上から滴り落ちる血は毛布を点々と染めた。水野少年はおののき、彼を抱きしめる母親もまた震えた。

 しばらくすると父親が戻ってきた。
「やった、やったぞ、鮮人めら十数人を血祭りにあげた。不逞鮮人めらアカの奴と一緒になりやがって」

 旧四ツ木橋では、水野氏の父親がそうであったように自警団が朝鮮人を日本刀で切り、竹槍で突き刺し、鳶口で頭を割り、殺した。別の証言者によると、こういう状況だった。
「橋は死体でいっぱいだった。土手にも薪の山があるようにあちこち死体が積んであった」

 習志野騎兵連隊も虐殺に加わった。ある在郷軍人はこう明かす。
「兵隊が殺したとき、みんな万歳、万歳をやりましたよ。殺されたところでは草が血で真っ黒くなっていました」

 一個小隊、つまり20~30人くらいが朝鮮人を二列に並ばせて背中から撃ったという目撃証言もある。二列横隊で24人を殺し、そういう虐殺は「2、3日続いた」。死体はどうしたのか。
「朝鮮人の死体は河原で焼き捨てちゃったよ。憲兵隊の立ち会いのもとに石油と薪で焼いてしまったんだよ。それは何回にもおよんでやった」

虐殺された人たちが埋められていたであろう場所

虐殺された人たちが埋められていた

 虐殺が行われた旧四ツ木橋は解体され今はもうない。私は西崎さんに案内され、殺された人たちが埋められた荒川の河川敷を歩いた。川べりに広がるサッカー場から子供らの歓声が聞こえる。

 西崎さんたちは1982年9月、河川敷の調査を行ったが、遺骨を見つけることはできなかった。それもそのはずで、震災の起きた年の2ヶ月後には、警察によって遺骨は発掘され、どこかへ移送されていたからだ。

 朝鮮人虐殺の全体像はいまなお目当てがつかない。西崎さんによれば「当時の政府が事件を隠蔽してしまったからであり、その後の政府が真相究明のための調査を行なってこなかったから」である。

 事件の公的資料はきわめて少ない中で、何が起きたかを知る手がかりは証言に求めるほかない。しかしながら公文書をはじめ、客観的とされる情報になるものだけに価値を置く人たちはオーラルヒストリーをあてにならないものと軽んじる。

 だが歴史は固形物ではなく、ひとりひとりがいまを生きていることと分かつことができない。あなたがもしも生きている人の切迫した語り、悔恨からの囁き、勇気をふるって口にすることを侮るのであれば、いずれあなたの語りに誰も耳を貸さない態度をあなたは周囲と自らに許していることになる。

 権力やそれが認める客観性に評価される。そのことでしか言葉の確かさが求められないとしたら、暮らしの中で育まれる私たちの言葉は痩せ枯れてしまう一方だ。それは必ず生きている人の存在を軽んじることにつながる。

 死者の声は直接聞くことができない。殺されかけた人、殺された人を見た人、殺した人を見た人、殺した人。さまざまな思いと感情と立場から響く複数の声に耳を傾ける。そのことでしか見えてこない事実は確かにある。

関東大震災朝鮮人虐殺の記録: 東京地区別1100の証言

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