Vol.3 空気とあいだから始める数学の可能性

第1号 独立研究者 森田真生

Vol.3 空気とあいだから始める数学の可能性

尹 : 前回から話に出て来るグロタンディークですが、独学で数学を研究していた彼は、20歳を過ぎるまで数学者コミュニティとの接触があまりなく、最先端の数学についての知識はほとんどなかったと言いますね。
数学はそれまで積み上げて来た知識がなくても「わからなさ」のただ中から始められるものなんですか?

森田 : グロタンディークが10代後半から取り組んでいたのは「測度」という、面積や体積などに相当する概念に関する研究でした。
すでにルベーグという人の測度論に関する研究についてはちらっと言及しましたが、グロタンディークは、数十年前に完成していたルベーグの仕事の存在を知らずに、自力で3年くらいかけて測度論をつくりあげてしまった。

「面積とは何か」というような根本的な問いについては、かえって余計な知識がない方が曇りのない目で考えることができるのかもしれません。
彼のような存在は、ただ知識を教えていくだけにとどまらない教育の可能性を示唆しているような気がしますね。

そういえば、戦時中に、ドイツやフランスなど、海外の文献が日本にまったく入ってこなくなった時期に、高木貞治をはじめとする日本の数学者が目覚しい業績を上げていったという話もあります。情報のないことが強みになることもあるんですね。
特に、数学のように、根本まで立ち返った思考を要求されるような分野では、ますます情報に惑わされない力が必要なんだと思います。

とにかく、グロタンディークも岡潔も既存の制度に追従せず、それぞれの「本来」を追究していった結果、むしろ制度の方が後から彼らを追いかけたって感じがあります。かっこいいですよね。明恵上人じゃないですけど、まさに「阿留辺幾夜宇和」を生きた男たちという感じがします。

発見とは一回性の訪れ

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尹 : そういう先人の存在を知って、自分はどうしようと?

森田 : 数学で出世をしようと思ったら、やっぱり普通は誰もがまだ見つけてない「新発見」をしなきゃいけないだろうと思うわけです。
だけど、グロタンディークなんて、数十年前にルベーグがすでに作り上げていた理論をそうと知らずに自力で生みだして、「それはもうルベーグっていう人がとっくにやってるよ」と言われても一向に気にしないんです。

やっぱり、それが誰かの発見の繰り返しだろうがそうでなかろうが、本人にとって「そうか!」と分かる体験というのにはやっぱり一回性があって、それ自身すごく尊いものだと思うんです。「正解」なら授業に出れば先生がしゃべってくれるわけですが、正解を教えてもらうことと自分で発見して「分かる」ということは全然違う。

たとえば、いまでは地動説が常識になっていますが、「地球が太陽の周りを回っている」と本当に実感している人って、どれくらいいるでしょうか? やっぱり朝日を見てたら、「太陽が昇ってきたなぁ」と思うし「夕日が沈む」って表現しますよね。
ある冬の夜に、オリオン座がでっかく空に浮かんでいたことがあって、「ああ、またこの季節がやって来たんだなぁ」って思って、思わずオリオン座に「おかえり」ってつぶやいたら、横にいた友達が「いやいや、戻って来たのは地球の方だぜ」って(笑)。そんなこと言われると興ざめですよね(笑)。知識としては知っていても、どこかでやっぱり「星の方が動いている」と思ってる。

けれども、たとえばニュートンなんかは違ったんじゃないかと思うんですよ。惑星もりんごも同じ引力という原理にしたがって動いているということを発想して、実際に計算してみて、「あぁ、やっぱり地球は回ってるんだ!」と気づいたときには、本当に彼の中で地球が回り始めたんじゃないかって思うんです。
そういうのがホントの「発見」で、僕らはいろんなことを知っていても、必ずしも発見しているわけじゃない。
学ぶ喜びと尊さって、やっぱりあの発見の瞬間にあるんだと思うんです。で、それはどこまでも個人的な体験だから、繰り返しだって構わない。自分がホントに納得できることがやっぱり楽しい。楽しくて仕方ないわけです。

数学とは美的感覚に導かれる行為

尹 : 発見するためには、微細に感じ入るセンスが問われるでしょうね。

森田 : 僕は数学的な美ということに対する感性については、根拠のない自信を持っていました。
どの服がよりかっこいいかとか、どの絵画がより素晴らしいかとか、そういうことを語る自信はあまりないんですが、より美しい数学、よりおもしろい数学について、それを見分ける感性のようなものを自分は持っているんじゃないかっていう自負はありました。

それがなかったら、才能も能力もたいしてないのに、大幅に出遅れてまで数学を始めようなんて思わないです。

尹 : 森田さんに初めて会ったとき、点概念からの開放について話してくれたんですが、とても美しくエレガントでありながら、生が刷新されるような感覚を得ましたよ。

森田 : 圏論という数学が僕の専門になるのですが、そこで「点という概念を使わずに、いかにして数学を展開していくか」。つまり「数学を点の概念からいかに解放していくか」が最大のテーマのひとつになっています。

中学生のとき、授業で「物質は原子という、それ以上分解できない要素から構成されている」って教わるじゃないですか。教わるからがんばってそのようなものとして世界をイメージしてみようとする。

たとえば、「いま目の前にあるこの机は原子から構成されていて、原子核と電子の間にはいっぱい隙間があるから、ホントは隙間だらけで…」と。
だけど無理なんです。授業で教わった世界の描像に目の前の世界を合わせていこうとしても、どうしてもリアリティがない。納得できなかった。
それで「この納得できなさ」の根底にあるのが「点」っていう概念なんじゃないかと、数学を始めて少しずつ気づいてきたんです。

「大きさのない点」は幻想の産物

尹 : 学校では点のつながりが線に、線が面に、そして体になると教えられました。これって世界の把握の基本が点だという認識ですよね。

 

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森田 :
なぜ大きさも長さもない点がつながると長さのある直線になるのか。ホントはみんな納得できてないと思うんですが、さも当たり前みたいに学校でそのように教わりますね。
僕はその「点」というのがよく分からなくて、気に入らなかったんです(笑)。だから点という概念なしで世界を構成していけるような方法を探したいと思った。


尹 : 点を初めて考えた人は誰なんです?
森田 : 前回も触れたカントールが19世紀末に集合論という偉大な理論体系を打ち立てます。そこではじめて現代的な意味での「点」の概念が出てきたと言っていいと思います。点の代わりに「要素(element)」と言ってもいいでしょう。
古代ギリシアでもデモクリトスやクセノパネスが原子論について語っていますが、あれはいまここで言っている点とは違います。

原子論のポイントは、「世界はどんどん分割できるけど、その分割の過程はいつか終わる」と考えたところにあります。どんどん世界を分けていくと、原子というそれ以上分割不能な単位にぶつかる。
でも、あくまで原子は有限の大きさを持っています。「大きさのない点」という考え方とは根本的に違います。

比べて現代数学で「点」というときには、点に大きさはない。どんどん分割していって、それを究極まで進めることができたら、大きさがなくなるだろう。そういう神をも恐れぬ発想が点というアイディアを支えています。

尹 : 無限に世界を分割していくという考え方は、かなりアクロバティックでもありますね。

森田 :集合論を勉強したときには、楽しくて楽しくて、発見と驚きの連続でした。けれども、やっぱり世界を「点」という要素から組み立てることができるという発想にどうしても違和感があったんです。そこに何かとても大きな落とし穴があるような気がして。

たとえば、直線が点の集まりだとしたら、その直線からひとつだけ点を取り除くっていうのは、簡単なことですよね。もともと単なる点の集まりなら、点を取り除いたり付け足したりも自由自在です。
でも、これはよく考えるととてもおかしな話で、大きさのない点を直線からひとつ取り除くわけですよね? 大きさがある米粒を米櫃から一粒取り出すならまだしも、大きさのないものをそんな簡単に取り除けますか? まわりの点も一緒にくっついてきちゃいそうじゃないですか(笑)。

実は僕がいま勉強をしているSIA(Smooth Infinitesimal Analysis)の世界では、直線は”undetachable(切り離し不能)”という性質を持っていて、まさにこういう事態が起こってしまいます。
直線から一点だけ都合よく取り出そうと思っても、そうは問屋が卸さない。周りの点も次々とひきつれていかれちゃうんです。だけど、これがほんとの「連続」っていうことじゃないかなって思うんですよね。

モノは要素からできていて、要素はいつでも都合よく取り出したり、付け足したりできる。そういう発想で世界を見ていくことに、僕らはすっかり慣れてしまっている部分がある気がします。

セシウムで汚染された牛を捨てよう。この患部が悪いから切除しよう。あの人たちは厄介だから追い出そう。“これ”が悪いから“それ”をなくす。こういうのも「点を取り除くことができる」という発想です。都合の悪いものだけを除けばいいという発想の根底には、もしかしたら僕らが集合論を学ぶ過程で身につけた身体感覚というのがあるのかもしれない。そう思うんです。

尹 : 一方で個性とか自意識とか、自分に対する固有性を人は感じるわけで、これもいわば点ですよね。個についてどう考えています?

森田 :最近、それがよくわからないんですよね。ディチャッタブルじゃない感じがすごくあります。
自分という、“この存在”として生まれるずっと前から存在していた感じもします。
永遠に続く宇宙に耳を傾ける感じによって、自分が消えて行くことの恐怖もずいぶんなくなってきました。
その一方で、そもそも固有性といいますか、昨日と今日の自分がうまく接続されている感じがだんだんわからなくなってきました。

震災を境にせり上がってきた時間

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尹 : 空間を占める個という点について、時間的な連続性で答えたところがおもしろいですね。それにしても以前はあまり時間について触れていなかった気がします。

森田 : はい。震災が起きる前まで、時間については考えないようにしていました。数学は時間と無縁で、“止まっている永遠の世界”を対象にしています。そのこと自体に、ある種のプライドも感じていました。
だって、「この定理はいまは成り立っているけど、2万年後にはどうなってるかわかりません」と言われたら嫌ですよね?(笑)

でも震災後、時間の存在を切々と感じるようになった。ようはタイムスケールが人間のつくっている社会と地震を引き起こすような地球のレベルとではまったく違うわけです。そのことを改めて痛感しましたね。

マグニチュード9は1億年のスパンで見ると小さい地震です。5、6億年前のバリスカン造山運動のときは、海底がいきなり露になり、地上が海底になるような地震がしょっちゅう起きていました。

地球の歴史でいうと、そういう規模の変化の流れの中で環境が形成されていて、でも僕らは、ともすると人類が刻むリズムの時間を当然のように考えてしまいます。震災がきっかけで、それとは違う時間の流れということに改めて気付かされました。

数学が永遠を考えているといっても、普通に考えれば数学自体はせいぜい2500年前のピタゴラスに遡れる程度の歴史しかもっていない。
そこで、僕は地球規模の40億年というスケールの中から改めて数学を考えてみたいと思ったんです。(Vol.4へ続く)


2011年9月15日
撮影:渡辺孝徳