Vol.8 この道を行く自分より他にない

第1号 独立研究者 森田真生

Vol.8 この道を行く自分より他にない

尹 : 数学とは何か?と、短絡して言うことはできませんが、少なくとも「わたくし」をつくり変えていく行為でもあるような何かではないか。8回に渡る連載の中でそういう道筋がじわじわと見えてきたと思います。
もしも、「わたくし」をつくり変えていくことにセオリーがあるとしたら、それはどういうものとして構想されるだろう。そういうことを考えてみたいんです。
さしあたって、ノイズをカットしたモデルをつくらないということであり、正面をつくるような知性に身を委ねないということになりますかね。

森田 :時代によって必要とされる知性は全然違って、例えばコンピュータの登場以前なら記憶力があることがとても重要だった。これからはノイズ込みの思考が重要になってくると思います。いままでの計算や制御と違い、どちらというとコリオグラフ(振り付け)に近いような思考が必要になってくるでしょう。

準備しようのない事態の連続が現実の姿

pre01_01_08_p01
森田 :
モチベーションをうまく導き、その人が踊れる構造をつくり、結果的にそれぞれの人がいろんなノイズをもちつつ、全体として統一のとれた踊りをつくる。それがよい振り付けだと思いますが、そういう知性がこれからますます重要になってくると思います。

尹 : いまの教育もある意味でコリオグラフと言えますよね。ただし、決まったパターンを覚えることがスマートなこととされていますが。

森田 : いちおう勉強すれば、その分成績は伸びるという仕組になっています。だから試験に行って、授業でやった内容がひとつも出なかったらブーイングなわけです(笑)。

でも、これは本当はおかしい。自然界の中で、あるいは人生の中で、準備した通りのことが待ち受けていることはないわけです。
予想外のこと、不都合なことが起きて、それにいかに対応していくかが生きるということでしょう。

試験では、準備した通りのことが出て来てくれるようになっていて、そういう試験を無数に乗り越えて来た人たちが世の中を動かすポジションにいるわけです。

予想外に対応できなかったり、都合の悪いことはなかったことにしようという態度は、予想外も都合悪いものも全部除外された「試験」という特殊な経験の中で培われてしまっているのではないでしょうか。

尹 : つい忘れてしまいますが、同じことの繰り返しなど本当はない。

森田 : ですから、過去のデータに基づく予測では「ああすればよかったのに」と、いわば過去を予測することはできますが、本当の意味で未来に目を開くためには、本質的に違った種類の知性が求められます。

「それ以上のノイズが入って来ない」という閉じた中での思考では、「あれはよかった」「間違っていた」「すばらしかった」ということしか出て来ない。

本当は明日何が起きるかはわからない、そういう未来と向き合って行くためには、ノイズ込みの思考、ということを真面目に考えないといけないのではないでしょうか。

尹 : ノイズを含むスマートさを考えるならば、部分を集積して全体に至るような知性だとか、自己というものは内部に存在するといった意識は変革を迫られざるをえないですね。ちょっと怖いけれど、でもおもしろそう。

森田 : 私というものへの意識が強ければ強いほど、外からのノイズをシャットアウトしようとする。 でも、ノイズの取り込みが当たり前になれば、いまの私の境界の感覚が侵犯され、曖昧になって行くかもしれません。

自分が計画した通りに行かない、不都合なものがあちこちで起こって来るのが平常になると、境界の感覚は変わってくるはず。本来、ウェブはそういうものとして期待されていたと思うんですよ。

ウェブが目指したはずの集合知

森田 :ウェブはマスメディアみたいな中央集権的な情報のあり方じゃない、人と人がつながっていくことで集合的な知性が形成され、発揮される場。そういう世界として描かれていたはずですが、いま逆に個人に閉じていく傾向もあるような気がします。

内田樹さんが「情報の原子化」ということをおっしゃっています。たとえば、テレビも新聞も見ない人は、みんなで共有できる情報がなく、ツィッターで自分好みの偏った情報しか見ない。それをつなぎ直すには、「メタ情報」、つまり情報についての情報が必要だということを、先日ブログの中で明快に主張されていました。

「私が見ている情報はこういう全体の中の偏った部分だ」ということを認識するメタ認知が必要だというわけです。 内田さんのおもしろさは、「メタ認知は“私”がやることではない」と言っているところです。集合知の働きによって行うものだというわけです。

尹 : 集合知という構造の中で駆動する何かが個人のメタ認知を可能にするというわけですか。

森田 :ちょっとSFっぽいですが、それが本当にできたとき、「新しい私」が現れるかもしれません。 個のレベルで情報にアクセスし、それがひとつの大きなネットワークを形成し、やがてネットワーク自体が自分をメタ認知し始めるイメージですが、これってたぶん大昔の人間の脳の中で起こったことですよね。

脳神経のひとつひとつの細胞は、個別に発火しているけれど、あるとき脳の複雑さが閾値を超えて、「思考している自分」について思考したり、「思考する他者」について思考したりすることができるようになった。

他人の心を自分の中で走らせることができるようになって、自己の感覚が立ち上がったとき、人間はそれまでとは違う存在になった。

そういう自己言及がもう一個上のレベルで起きたものとして、「集合知としてのメタ認知」ということを考えることができるかもしれません。

隙あらば顔をのぞかす厄介な「わたくし」

pre01_01_08_p02
尹:少し話を整理しますが、ノイズや都合の悪いところをカットすることなく、すべてを外に出したとき、ウェブも含めた外部とのつながりの中で、自分の身体の中だけに留まらない「わたくし」をつくり直すことになるかもしれない。

そこで思うのは、つくり直されることはあっても、「わたくし」は常に確定できない何かとしてあり続けるかもしれなくて、そうなると存在の底なしさや無限への不安は解消されることはあるんだろうか?ということです。

森田 : 無限とは、自分ではアクセスできないもので、自己が先にできてからアクセスできないものが見つかったんじゃなく、「アクセスできない何物か」が感覚できるようになったときに、それに対置されるようなものとして自己という感覚が出てきたんだろうと思います。

そこでいまの問いに答えるとしたら、何かに夢中になっているときに「わたくし」なんていなくて、どちらかというと、本当は世界と自分は切り離されていないし、むしろひとつになっている時間はいっぱいあるはずですよね。

たしかに隙あらば「わたくし」が出てきはします。でも、油断すると「わたくし」が出て来るということは、その背景に人間がこれまで何千年もかけてつくってきた仕掛けがあるんじゃないかと思います。

尹 : なるほど。では、そういう意識の構造を分析した上で数学に取り組もうとは思いませんか?
森田 : 僕は解明したり、分析するタイプではなく、とにかくつくり変えたい派です。

子どもの頃、砂場で遊んでいるとき、目的を決めてつくるのでも、誰かがつくったものを真似るでもなく、なんかつくって積み上げていって、よくわからないものができたときに、「ここをこうしたらこういうふうになるかな」と思ってつくり変えていってました。
ぜんぜん正解はわからないけれど、気に入らないってことだけはわかる。

「正解がわかる」と思える人は、目的をもってつくったり、批評したりするんでしょうけれど、僕はそうじゃなくて、違うことだけはいつもわかっているから、だからつくり変える。
それが正しいかわからないからつくり変えるし、私というものもつくり変えられるから、つくり変えていく。

尹 : 数学における計算という行為は、正解に向かうのではなく、「つくり変える」に近いんですか?

森田 : どちらかと言えば実験に近いです。物理で、理論を超えた観測にしばしばめぐり合ってしまうように、自分が信じていたものと全然違うことを数学に言われたりする。そうすると、「何を信じているか」の方をつくりかえないといけないわけです。そこがおもしろい。

理論を超える観測といえば、先日「ニュートリノが光速を超えた」というニュースが話題になりましたね。そのとき、多くの物理学者はデータと実験結果だけを提示して「解釈は一切しないし、意味については語らない」という科学的態度を貫きました。

解釈をしない、という態度

pre01_01_08_p03
尹 : その森田さんがおっしゃる、物理学者の「解釈を一切しないし、意味について語らない」態度がとても気になります。

というのも、私に対する「わたくし」の存在について、私は常に意味を帯びさせてしまう。正面をつくり出してしまう。
自身の解釈をせず、意味をもたせなかったら、世界とのつながりがずいぶんよくなるのではないか。そういう知性をつくる上で、数学はどういう存在なんだろうと思うんですよね。

森田 : これまでの科学では「モデル」という考え方が非常に重要でした。モデルというのは、先ず何よりも現実と辻褄があっていること、そして理解可能であるということが必要です。現実は厖大なデータからなっていますが、普通はあまりにも複雑で理解不可能です。

ですが、現実そのものは当然現実と辻褄があっているので、この現実をそのまま受け入れる方法があれば、現実そのものが現実のベストなモデルになるわけです。「モデルなき知性」という考え方は、こうやって、現実の厖大なデータをノイズ込みでそのまま受け入れてやろう、そうして初めて見えて来るものがあるだろう、という考え方です。

現実のデータを縮約してモデルをつくるとき、そこには必ず解釈が入ります。その解釈には恣意性があって、常に恣意的な正面をつくることで世界を見ているわけです。 そういう意味で、モデルは常に間違っている。間違っているけど有用なのがモデルだ、という言葉がありますね。

「恣意的に正面をつくり出してしまっている自分を反省する」ということを「客観視」というのならば、そのためのトレーニングは、数学でかなりの程度できると思います。

「数学をやったら正面を取らなくても世界が見えるようになる」という魔法はないけれど、自分たち自身の限界、世界の認識の限界を知る、そういう反省をする上では、数学にできることは多いはずです。

尹 : いま言った客観視とは、精巧なモデルをつくって、そこから観測するような行為ではなく、メタ認知ですよね?

森田 : そうです。自分で「自分の世界の見方」についての見方を考えたり、「自分の世界の見方というのは、こういう見方なんだな」と、自分のやっていることを自分の外から見ることです。

人間はアウトサイドに立つこともできる

森田 :ある機械に1とそれに「足す」ということを教えたとします。すると、その機械は1+1+1+1+…ということはできるから、いろんな数がつくれる。

でも、その機械に「0をつくって下さい」と言ったら、その機械は1と「足す」ことしか知らないから、0がつくれないことに気づくためには、1に1を足し続けて、「永遠に足しつづけたのに0がつくれなかった」というほかない。ですから、その機械は永遠に自分に0がつくれないことを認識できない。

だけど人はメタ認知ができます。1+1をやっていっても「足していくと増えるばかりだよな」と、一回システムの外に出ることで、問題を全然違う方向で解決しようとする。

それがシステム“の中で”思考することとシステム“について”思考することの違いであり、計算と知性の違いの本質でもあると思います。

計算はシステムの中を出ることができませんが、知性はシステム間を行き来することができる。数学に限らず、人間的な知性とは、あるシステムについて思考する能力をもつということだと思います。

尹 : 集合知が期待されたはずのウェブの世界では、極端な意見が正当性をもつかのように幅を効かせるようなカスケード現象も起きていて、「~について」よりも「~の中で」思考する流れが強まっています。

僕は「わたくし」をつくり直すことの可能性とそれに伴う風通しの良い知性が立ち上がることに寄与できたらいいなと思っていて、そのためのクリエーションを行いたい。

森田 :チェスの世界大会でコンピュータVS人間が一時期流行りましたよね。人間を倒す前に、あるおもしろいプログラムが開発されました。そいつは、負けることが確定する遙か前に「諦める」んです(笑)。そいつは負けてばっかりで弱いんだけど、かえって強いコンピュータより「知的」に見えたんです。

他のプログラムは、実際に負けるまでとことんやり続けるから、ある意味すごくバカっぽい。システムの中で考えて、外に出ることがないからそう見えてしまう。

でも、そのプログラムは、人間から見て「もっとがんばれるのに」という段階で諦めるから、すごく人間っぽい。チェスをしている自分を客観視して「ああ、もうやめちまえ!」って考えているように見えるんです。それはすごく人間っぽく見える。

人間は常にそういうことをしていて、本を読んでいても、「お腹が空いたな」と思って、読書のシステムから出る。 テレビを見ていても、それを消してそのシステムから飛び出して他のことを始めるというふうに、あるシステムの中で思考していても、そのシステムから否が応でも飛び出してしまう。

どこかのレイヤーのシステムだけに入り切らないのが本来の人間っぽいところだし、システムに入ったり、システムから出たりしているのが人間。それはまだ機械にはできないことじゃないでしょうか。

尹 : なるほど。なじんでいるシステムを外から眺めるという振る舞いが知性そのものをつくり直すことになりそうですね。

そうなると、システムから出ていくためには、油断してくるとつい顔を覗かせる「わたくし」という、自分に付きまとう他者じみた意識の働きもあながち不必要だとは言い切れませんね。

情けない二本足で立つ自分まるごとから始める

pre01_01_08_p04
尹 : これまでの話で、数学はかつて学校で教えられたような内容に閉じ切らない、開かれた豊かな行為だということがずいぶんわかってきました。今後は、どういう活動をしていきたいと思っていますか?

森田 :とにかくいまはノイジーなことをやりたいです。万全の準備をしてから何かを発表したり、人と向き合ったりしてきたので、いまの自分のままであり、しかもノイズをカットすることなく、そのただ中で言い訳をしない。そういう態度をとっていきたいなと思っています。

やっぱり人生はまるまるで全部だし、物事は抜き打ちでやって来るものだから、「ちょっと、いまのはナシ」と言えなくて、そのときにできることが自分なのかなって思います。

これから行うゼミやセミナーでも、「こういう感じなんですけど」と、いまの自分というものを正面も裏もなく投げ出す。その場に居合わせたお互いがそういうふうになれたらいいですよね。

ホントに人間の輝いているところと醜いところを両方受け入れられたらいいなと思うんですよ。 そもそも人間って中途半端だし、裸になると情けないし、二足で立っていても、あまり様になっていない。
情けなくて中途半端な存在が人間で、実際のその姿を否定して着飾って、正面だけ取り繕って、裏でいろいろ隠しても仕方がない。ある種の開き直りが必要だと思うんです。

尹 : 実は無様だということがわからなくなっているから、正面を取り繕うことに懸命で、その結果、人間の奥行きや可能性を狭めちゃっている。

森田 :その一方で、現代ほど可能性に追いまくられている時代もないなと思うんですよ。ペットボトルのお茶を選ぶのも何種類もあるからたいへんだし、「これも見たいあれも見たい」とタブを開いてネットサーフィンしたりする。

常に可能性が枝分かれてしていて、無限にあったはずの可能性の中の「たまたまこれを選んだに過ぎない」という感覚をこれほどもっている時代もないんじゃないですか。

つまり自分の選んだ「いまのこの道」に対する自信がもちづらい。「あのとき違う道を選んだら、いまのような人生ではなかったのかもしれない」と思ってしまう。この道しかないと思えない。

僕は朝と夜、誰もいないグラウンドを走ったり歩いたりしています。歩いているあいだにも「こうじゃなかった道」をいろいろ考えたりしたことがありました。 でも、歩いているときに「ありえたかもしれないこと」を考えているあいだにも自分は歩いていて、その道はひとつしかないんですよね。

自分の歩ける道はここだけしかなくて、この道だけが自分の道で、いま歩いている自分だけがいまの自分で、この道以外の道はいまには存在しない。 そこには言い訳も待ったもなくて、だから、それぞれの存在がそれぞれの居場所をちゃんと生き抜いていくしかない。そういうことが肯定される世界観を考えたいですね。

尹 : ありがとうございました。 (了)


2012年1月27日
撮影:渡辺孝徳