Vol.1 生活を丹念に描くことから守るべきものが見えてくる

第4号 絵本作家 松本春野

Vol.1 生活を丹念に描くことから守るべきものが見えてくる

尹 : 初めてお会いしたのは、mammo.tvの取材でしたが、そもそも話をうかがいたいと思ったのは、松本さんの絵に描かれる子供同士の距離感が気になったからです。  松本さんの描いた絵に、隣人との近しさや家族の団欒などを見て取った人は、「懐かしい」と感じる人もいるかと思います。僕はそういう思いを抱く人と時代や環境、文化を必ずしも共有していないのですが、なんとなく「懐かしい」と言いたくなる気持ちはわかります。

と同時に描かれている人と人、人とものとの距離がたぶん昔よりは遠くて、でもその距離を縮めようとしている様子が描かれている。そこになんだか人の心持ちに添おうという動きが感じられたんです。

松本 : そうかもしれないです。以前、いわさきちひろ特集で原稿を依頼されることがあって、自分の絵と祖母のちひろの絵を否が応でも比べる機会をもちました。そうして言葉にすることで自分の絵についてわかったことは、ちひろは抽象的な絵の中で子供を、命のそのものを描いた。だけど、私はつながりの中で人を描いているんだなということでした。

何を目の前にして人は笑っているのか、泣いているのか。どういう状況の中で苦しんでいるのか。赤ん坊の表情ひとつで「ああ、いまお母さんがそばにいないのかな」とか。体が不自由なお年寄りでもニコニコしていたら「充実した日々を送ってきたのかな」とか。
もちろん想像させる絵を描くことで現実を狭めることもありますが、広げることもありえるでしょう。ちひろは描かないことで想像力をかき立てた人で、余白にみんなが自分の思いを重ねていた。私はそうじゃないスタイルにどんどんなっています。

尹 : 最近、NHKのワンセグ放送「モタさんの“言葉”」で絵を描かれていますよね。番組では精神科医の斎藤茂太さんのエッセイのストーリー展開に合わせて絵を描かれているわけですが、松本さんが自身の普段の暮らしの中で気になってしまうストーリーはありますか?
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松本 :
特別なものはなく、私の場合、なんでもないものがストーリーを紡いでいぐ感じです。
ストーリーって、「その場」を描けば必然的に生まれるものじゃないですか。

たとえば、道行く人を描いていたとして、その人がどんな姿勢で、どんな顔で、何を持って歩いているか。そういうことをしっかり描けば、どういう暮らしをして、どういう人生を送ってきたかが見えてきます。
丁寧に部分を捉えると、自然とストーリーは生まれてきます。だから敢えて暮らしの中からストーリーを拾うというよりは、目の前の見たものを描くって感じです。
私がいま生きていて、共存している世界を描くと自然とストーリーがある。だからいろんなタイプの人がいる状況を描くのが好き。お金持ちだけが住んでいる街や暮らしとかじゃなくて。もちろん日本にもそういうところはあるけれど。尹さんは芦屋育ちでしたっけ?

尹 : 芦屋の隣の岡本です。芦屋同様、人によってはスカした街だと思うようなところです。

捨てたものじゃない光景が想像の源

松本 : 関西のほうがエリアごとの特徴だとか暮らしのストーリーの違いはありそうですよね。
でも、私は練馬出身だからな。たぶん成城出身だったら同じ東京を見ていても、全然違って見えるんでしょう。
うちはサラリーマン家庭じゃないけれど、育った環境は普通です。だから私は普通の日常を描いているんだと思います。そのせいか六本木ヒルズとか苦手なんです。落ち着かない。

私の馴染んだ暮らしは、「なんとかお金を貯めて建てたぞ」というような分譲住宅があって、その隣に昔から住んでいる人の家があったりとか、どうも整っていない感じ。それこそが日本という感じがする。

尹 : 基本、街並みも建具も雑然としていますよね。

松本:比べてヨーロッパはきれいなんですよ。街の風景を守ろうという思想やプライドがあるから。日本はそれがない。湿気もあるから建物がもたないせいもあるんでしょうけれど、雑多な感じがあって、でもそこに安心したりします。

尹 : 整えられないっていうのは、木を刈ったところで雑草や雑木が次々生えてきたりするし、建物を盤石にしようとしたって災害は多いから、いつも「間に合わせる」という発想で街や家屋を捉えていたせいかもしれませんね。

松本 : だから絵にするとおしゃれにはならないんです。絵本では「素敵な世界」が描かれることが多いですが、私の描く絵はそういうものにはならない。でも、たぶんホッとする感覚はあるはず。それが普通の暮らしだから。

みんなが憧れるライフスタイルとか夢の世界とか、そういうものをつくったり、描く人はたくさんいるけれど、私はそういうものを描くのに長けていないんです。
一方で、もし、いつも見ている風景を「捨てたもんじゃない」と思わせられるように描けるなら、それは目指すべきものになるんじゃないかと思いました。
昔から「筆を6割で止めた」とか「引き算の絵だから良い」などと周囲がちひろ論をぶっていて、そういうのを聞いていると、「描かないことがいいのかな」と思っていた時期もあったけれど、私のやり方ではなかったようです。いまはなるべく現に見ている風景をたくさんを描いてみようと思っています。

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尹 : 「モタさんの“言葉”」では、そう意味で「たくさん」人が出てきますよね。だらしなかったり、悪口を言っていたり、通勤で疲れていたり、心当たりがあるし、どこか冴えない人たちが多かったりします。描く前に、生き方のヒントになるという話のディティールをどういうふうにつかまえているんです?

松本 : 原稿を読むと、ときに「そんなこと言われなくたって知っているよ」と思うことがあります。たとえば、子供をなだめるとき、お菓子をあげてその場しのぎで済ませるのではなく、抱きしめて諭せばいいとか。そんなことはわかっているけれど、そうはできないこともあるでしょう。実際、「いちいちそんなことしていられない」という母親からの声も聞きます。
でも、「そんなことはわかっているよ」というからには、「そうしたほうがいいのかな?」という思いもどこかで持っているわけです。なんか引っかかりはあるから反応しちゃう。
私の場合は、「どうしてモタさんは同じようなことを繰り返し言っているんだろう」と引っかかったこともありますが、90歳の人生の大先輩が書いていたんだなと思うと、自分はまだその3分の1も生きてないから、やっぱり何かあるんだろうなと思ったわけです。

だからでしょうね。「老人は老害をまきちらす存在だと思っていたけれど、この番組を見て考えを改めました」というようなツィートも見かけました。きっと響かないときは響かないけれど、自分が弱っていたりするときに「同じようなこと」に思える話が効くんだろうなと思います。

尹 : その人が老害という言葉をさらりと出せることも、テレビを見て「考えを改めました」と言えるのもなんだかすごいですねそれって僕らの現に見ている風景の中には、老いた人をおしべて害とうっかりみなしてしまうような感覚があるってことですよね。
僕は、いまこの社会にはすごく怒りが蔓延していると感じています。揮発性が高くてパッと燃えるだけで済まない、ぶすぶすと燻り続けているようなものが。

怒りをぶつけるだけでは解決しない

松本 : 怒りについて言えば、私はカッとならないタイプで、怒ったらすぐ寝てしまうんです。怒っていると、怒っていること自体が自分にとってストレスになりますからね。

尹 : そういえば人権問題に取り組む弁護士に憧れていたこともあったそうですが、世の中の不条理を許しがたいという思いがあって、怒っていたんですよね?

松本 :怒っていたというより、「こんなのおかしいから嫌だ」と思っていました。嫌だという気持ちは大切で、でもその原動力が他人の批判に向いてしまうと、自分が嫌な気持ちになります。嫌な気持ちのままに何かを言っても、周りの気持ちを固くさせてしまって、言いたかったはずのことがいくら説きたくても通って行かない。
でも、「こうなったらいいじゃない?」という提案だと、人はあんがい「そうだよね!」って共感できる。だから私は人を傷つけないように言おうと思っていて。たとえ怒りが原動力であったとしても、それをそのまま言ったところで何もならない。

尹 : だから原発に対してもストレートでありつつ慎重に発言しているんですね。

松本 : 原発の問題に対しては、ブログであれ原稿であれ、「それについて書かない」という選択は、私の中ではありませんでした。だけど、自分の怒りをその場でバッと出して自分がすっきりしたいのかと言ったら、そうではない。

誠実な表現とは怒りの抑制である

松本 : 困っている状況から脱したい。これについて議論したいからものを言う。だったら自分の発言にはすごく気をつけないといけない。どうやったら人は読んでくれるか。読んだ人がそれを持ち帰って、周りの人と話しをしてくれるためには、どういう表現をすればいいか。そこまでの言葉を考えないといけない。
Facebookの私的な発言だって、公的に発表する原稿を書くくらいの気持ちで書こうとしています。でも、うっかり間違った情報を流したり、やらかしちゃうこともありますが、、。

尹 : 一度書いたものはたとえ削除しても残り続けますからね。「あのとき書いたのは、そういう意味じゃない」と言っても、そのとき見聞きしたもので印象が決まってしまうこともあるから、だから表現にはある種の感情の抑制が必要なわけです。

松本 : やっぱり人の気持ちを頑なにしたくないので、だったら最初から考えて言ったほうがいいですよね。表現は、感情のまま表すことではなく、「自分は何をしたいのか」をいちばんに考えてから形にするものかもしれません。

怒りが最初にあっても、状況を変えたいなら怒っちゃダメですね。人を味方にしたいなら尚更です。自分の考えに賛同していない人の気持ちをさらに敵意に満ちさせてしまったら元も子もない。そういう人たちと一緒に考えないと世の中は変わらないなら、その人たちの心に引っかかるような言葉でないといけないし、そうでなければ表現として誠実とは言えない気がします。

原発や戦争の話などは、悲惨な風景や戦場で傷つく兵士とか飢えた子供の姿とともにたくさん紹介されます。それはショッキングで多くの人に印象を残しますが、重苦しいと言って反発する人も出てくるかもしれません。だから私はあえて日常から訴えます。思想や主義主張とは関係のない絵を描きます。

たとえば、お母さんと子供がおしゃべりしている場面や昼寝している人の側でネコがごろごろしていたりとか。誰しも「そういう生活を守りたい」思いがあるはずで、それが絵と言葉で表されたら、グッと気持ちも柔らかくなるんじゃないかな。
正義って人によって違うけれど自分の暮らしとか大切なものがあって、それを守りたいのはみんな一緒。だから、みんなが共感できるものを表したいですね。(Vol.2へ続く)


2013年4月11日
撮影:渡辺孝徳