第4号 絵本作家 松本春野

Vol.2 伝えたいのは情報ではなく、思う気持ち

尹 : 松本さんの描いた子供の姿を見るにつけ、肯定感が幾重にもたくし込まれているのを感じるんです。きっと、松本さん自身、すごく肯定された経験があるのかなって思うんです。

松本 : 尹さんのブログを読むと、笑ってもいいのかな?って、ちょっとつらい思いになることもあるんですが(笑) 私は親をはじめ周りから極端に否定されたりしなかったし、愛されていたと思います。

それに私は在日コリアンじゃないから―、いや先祖を遡ればわからないですけどね。でもそういうキーワードでくくられることの問題なんかがあるわけじゃないですか。
Yahoo!のコメントなんかひどいことになっていて、ああいうのを見ると身が引き裂かれるというか、すごく嫌な気持ちになるんです。

尹 : ヘイトスピーチが普通に溢れています。

松本 : 自分のことではないけれど、つらい気持ちになる。本当のところ言うと、ルーツなんてわからない。どんな血が入っているのかわからないじゃないですか。

尹 : 今上天皇も「ゆかりがある」と発言していましたしね。

松本 :だから、自分を否定される気分をいつも味わって、感じてきた子供たちは、どんな気持ちなんだろうと思うんです。わからないから想像するんです。
私は自分の子供の頃のときの気持ちに思いを馳せることがあまりないのは、ある意味すごく幸せだったんでしょう。
唯一引っかかった時期があるとしたら、両親が離婚して、父に新しいパートナーができたときでした。父が再婚したとき、嫌な気持ちが芽生えて、ふたりのあいだの子供とか想像したくなかった。
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文字と現実のギャップに想像力は宿る

尹 : 親には親の人生があるとは思えなかった?

松本 :父が保育園の送り迎えをし、遠足の弁当をつくってくれ、朝ご飯も毎日つくってくれたりとか、「父親とはそういうものだ」と疑いもせず育ってきたからでしょうね。
だから、ある日、父が自分の人生を始めると言い出したとき、自分はいちばん大切に思われて当たり前の存在だと思っていたけれど、そうじゃなかったと思ってショックだった。

母に「世の中にはいろんな環境で育った子供なんていっぱいいる」と言われても、ピントこない。いや、字面ではわかっていたんですよ。「一個人の幸せがあってのみんなの幸せだ」とか「父親という役割じゃない人生がある」とか。
でも、街中で若い女の人を連れている男の人を見るだけで嫌な気持ちになったり、涙が出たりしました。

でも、自分も恋をしたり、やるべきことが見つかったりすると、いろんな人生があるんだし、また恋をすることもあるんだとわかってきて、「お父さんが幸せになってくれていたほうがいいな」と思い始めた。人って自分勝手ですよね(笑)
家族が増えて、価値観が増えていく。いろんな人と出会い、様々な人生を知り、本や映画を見たりして、想像力がやっと育ってきて、それで距離感もって父のことを思えるようになりました。それまでにすごく時間がかかった。できれば、思春期くらいには、それくらいの想像力が欲しかったです。

尹 : なるほど。親に期待できたからこそ、裏切られた思いがありえると思うんですが、僕の場合、家族は小さい頃からまったく相容れない他人として映っていたので、松本さんの話は新鮮です。でも、多かれ少なかれ普通は家族に対する期待はあるものでしょうけれど。

松本:両親ともに「子供が大切」とか「正しいと思われる」ことを発言する人だったので、人の感情は変わることが当時の私はわからなかった。
「“子供がいちばん”って、ここには書いているのになんで」?と、文字に固執していたんですよね。彼らが何を言ったか。何を掲げていたか。そこばかり見て、「その人がどういう人であるか」を見なかった。Yahoo!のコメントもそうじゃないですか? すごく一面的にしか見ないじゃないですか。

尹 : 断片的な言葉を解釈し、突き合わせることが現実だと勘違いしていますよね。

何をしたいかわからずに思考も行動もありえない

pre04_02_01_p02松本 : そう。これは感覚でしか把握してないので、うまく言えないけれど、「だから、そういうことじゃなくて!」と言いたいことがたくさんありますよ。
世の中を変えていく、良くしようとするときに見るべきはそこじゃない!ってところに何かこだわっている人が多い。たとえば、首相を個人的に非難したところで、政治は何も変わらない。

「その人はなぜそういう行動をとらなければいけないのか」を知らずにただ非難することでは何も解決しないはずですよね。自分が何をしたいのかを明確にわかってから行動することが、考えを持つと言えるはず。

ちひろの夫であり、私の祖父である松本善明が「議論のための議論はしてはいけない」「勝ち負けのためにやっているんじゃない」とよく言ってました。

尹 : 弁護士としてさまざまな労働争議に関わった経験がそう言わせているんでしょうね。

松本 : カッとなったときって、つい相手を負かそうと思ってしまいますよね。それが感情だけれど、そもそも何のための議論なのか。そこに思いを馳せるようにする。そこを見失わなければ、感情が暴走することはないかなって思います。

尹 : 思想だとか信条とか整然とした言葉をあいだに挟むと、感情的に相手を否定する言葉は生まれやすい。僕はそこをほぐす言葉をうまく紡ぐことができたらいいなと思っているんですよ。

松本 : 他人を否定し、認められないのは、自分がつらい思いをしたからだという側面もあって、だから自分が簡単に否定できる弱い立場の人を探し出して、非難して自分を肯定する。そうやって、ようやく自分が成り立つんだと思います。

尹 : でも、そのコンプレックスは他人を否定することに依存しているから生まれるわけで、否定する限り、自分の中から去ることはないですね。

松本 : コンプレックスがあると「人を見返してやろう」という思いが原動力になって、たとえばいい大学に入るとか優良な企業に入ることくらいは可能にさせたとしても、否定の感覚がいつまでも手放せないで、なんだか魅力的ではない人になってしまうこともありますよね。

気になることとコンプレックスはイコールではない

松本 :私、すごく太っていたことがあって、それでコンプレックスを持ちそうになったんです。で、そうならない方法を必死に探したんです(笑)
なぜコンプレックスを感じそうになるかというと、それは自分の価値観ではなくて、むしろ価値観が確立される前に男の子を意識する子がいて、その目が気になってしまったから。だから太っていること=コンプレックスになってしまう。でも、そうじゃないはず。

そのことに中学で気づいて、これは幸せじゃないなと思った。私はもっと明るい溌剌とした人間のはずなのに、体型が気になって下を向いてしまう。そこで女子高に進学することにしました。
男の子がいなかったら別に太っててもそれがコンプレックスにならなかったんです。みんな自分の趣味に邁進していて、他人の見た目なんか気にしない。だから女子高時代は幸せでした。弁当も毎日2個持って行って、さんざん太りました(笑)

尹 : 男という他者が入ると、コンプレックスを生じさせる価値観のもとでのヒエラルキーが生まれるわけですね。

松本 : だから女子高でかつ制服が可愛くないところを選んだんです。みんなその制服を着るとダサいんですよ。ともかく自分がいかに幸せに生きるかを考えていました。満たされていたら人に優しくできる。それを考えることが大切だと思っていました。

尹 : 怒りとならんで、コンプレックスの感情もわりといまの社会の基調を奏でていますよね。
一律に何かができること。規格化された事柄を行うことが能力だと見なされていると、それができないことによって劣等感が植え付けられる。たいがいの教育って、わざわざできないことをさせられて、それを認識させられた上でできるようになるよう仕向けられるから、そういう「できない」感覚が他者への嫉視につながっているのかもしれません。

松本 : だから、からかうことが客観的だと勘違いしてしまうのかも。

冷静であることと傍観の違い

尹 : そういうふうに笑うことが知的で客観的なことだと思えるのは、他者を否定することでしか肯定感を得られないような関係性を自分でつくり出しているからですよね。
自己肯定が傲慢であっては意味がないわけで、だから健全な自己否定は自己肯定と同じくらい難しい。自分は自分から離れられないけれど、いまの自分を打ち消していくだけの距離感は見つけられるはず。つまり、コンプレックスは放っておいて時間が解決することはなく、この先の時間の中で何をするかによってしか解消できない。
だから、自分の置かれている状況をベタに受け取って、自分は良いとか悪いとか判断しても仕方ない。

松本 : 人の感情のコントロールや肯定的なものの見方は本で読んで学んでも身につかない。安定したコミュニケーションの中でで育っていくものですよね。だから、不安定な環境で育ったら、それなりの苦労が多いかもしれない。追い詰められると感情がぶれたり、混乱してしまうことだってあるでしょう。
尹さんのようにいろいろ複雑な経験をしてきた人が人に対して肯定的な発言をしているのを見ると、素直な人だなと思うのです。
だから私はある意味で、尹さんと違ってそれなりの考えに達しやすい道のりだったし、自分が何かを語ってしまうのは、とても中身がないような気になるんです。
でも、過程は違っても行き着く場所は同じなら、それぞれの人が経験を語るのもいいじゃないか。そう思うようにはなりました。知ったかぶりをしないで、自分の状況を認識した上で話せばいいんだと。

『ふくしまから来た子』を描いた理由

ふくしまからきた子(岩崎書店)

ふくしまからきた子(岩崎書店)

尹 : 状況を認識した上で話すといった意味で言うと、『ふくしまから来た子』では、実際に福島に足を運んだそうですが、どういう状況を認識した上で絵を描かれたんですか?

松本 : 直接子供には何も尋ねず、挨拶するだけでした。というのも子供たちはあれこれ聞かれることをたくさん経験していたからです。記者がいつも来てカメラまわされて、それだけで十分傷ついている。
私は遊んでいる子供らの姿を見ただけで、実際に話を聞いたのは、その子たちと直に接している大人たちからです。
本をつくることを決めたのは、二度とこんな状況をつくり出さないために何ができるかを考えた末でした。そのため子供に何かを尋ねて、これ以上、傷つけるようなことは止めようと思いました。

だから、新聞などでこの本の紹介をしてもらう際、「福島の子供の気持ちを伝える」という表現は訂正してもらいました。福島にいる人からしたら、自分たちの経験は他人が決して伝えられるものじゃないし、私だって伝えられると思っていません。だから「伝える」は使えない言葉です。
そして、断定的な言葉ではなく、「こうだと聞きました」と必ず伝聞にして欲しいと要望しました。自分が行ってその場で聞いたことも自分のものにしちゃいけない。福島に行ったといっても、見ただけなので、そこはつい冒してしまいがちなところですよね。
ともかく文字にしたときは思い上がった表現をしていないか何より気にしています。自分が世の中を知った気になってはいけないし、何も知らないからこそものをつくっていて、その時々に確認できる。そういう作業が絵を描くことだと思っています。

尹 : その微細さがなかったら表現に緊張感は生まれないですよ。

松本 : 新聞だと人の心の襞を書くだけの文字数がないから端的に強い言葉を使おうとする。でも、それは止めて欲しいんです。
インタビューされる立場から言うと、情報を詰め込むより、人を思う気持ちが伝わる内容のものにして欲しい。報道でないページでは、情報よりも思いが伝わることのほうが大事だと思っていますから。
絵も同じで情報ではなく、心を伝えたい。何を考え、どういう社会にしたいのか。みんなにどういう気持で過ごして欲しいのか。それが伝われば十分です。(Vol.3へ続く)


2013年4月18日
撮影:渡辺孝徳

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