Vol.2 奪われ、取ってつけられたままの体の私たち

第5号 作家 赤坂真理

Vol.2 奪われ、取ってつけられたままの体の私たち

赤坂 :『体の知性を取り戻す』は、私の関心領域と重なりました。というのも、明治になって日本から奪われてしまったものがあり、また明治になって取ってつけられたものがあると感じていたからです。
いまの教育もやはり「奪われ、取ってつけられた」ところに根ざしていて、軍国主義が終わろうとも同じ作法で学校で叩き込まれています。

本の中でも書かれていたように、「気をつけ」「休め」などがまさにそうです。これは私もすごく気になっていたポイントで、あからさまに軍隊の号令です。それが学校教育にスライドしている。にもかかわらず誰も疑わないのは、多くの日本人にとって疑うよすがのないことだからです。

尹 : 疑問に思っていましたか?

赤坂 : はい。リアルタイムでは「なんだかおかしい」といった違和感くらいでした。でも、後になって「どうしてだろう。だって、あれは軍隊のものなのにな」と思うようになりました。

尹 : 高校時代、アメリカに留学されています。向こうの学校では始業の際の起立、礼だとかの儀礼めいたことは行われていましたか?

赤坂 :ありません。授業の開始と終了を知らせるビーっというブザーが鳴るだけです。鳴ったら教師が話していても生徒は出ていきます。それがいいというわけではないけれど、「気をつけ」をしろ。指先までピンとのばせ、などと命じられるのはヘンです。pre05_02_01_p01

戦後も体は戦前をひきずっていた

尹 : 権威や秩序を無視するとはみなされないんですね。

赤坂 :そうですね。よく考えると学校の朝礼も軍隊から来たものでしょう。日本の学校では、勉強よりも秩序維持が大事と思われているふしがあり、そのために行われている様々な作法があります。その中から軍隊由来でないものを見つけるほうが難しい。

おそらく明治になって近代国家をつくるときの組織の雛形として、軍隊が一番効率的だった。だから学校も同じ方式にしたのでしょう。
おもしろいのは、戦後になってそれまではびこっていた軍国主義的な言説は180度転換したけれど、身体作法はまったく変わらなかったことです。180度というのは、実は根が同じだと思います。

尹 : 近代以前の身体作法がどういうものか。本当のところはわかりません。現代人が想像した通りのもの、でないことは確かです。

赤坂:たとえば能には拍子はあるがリズムはない。節はあってもメロディはない。こういったことは手がかりになりませんか。

尹 : なるほど。機はあってもタイミングはないといいますし。機は合わせるものではなく合うものでしょう。相手に自分を合わせてしまったら必ずズレますから。

赤坂:そういう意味では、軍隊は規律がそうであるように、タイミングを合わせることが必須です。

尹 : 合わせるためには標準を設定し、標準にならうのを良しとする考えを暴力的に心身に仕込むしかない。それが「気をつけ」であり「休め」だというわけです。

赤坂:そう、私も暴力的と言いたかった。軍隊的というより暴力的です。それが私が戦後を「愛と暴力の戦後」と呼ぶゆえんです。しかし、その戦後を超えるものが出てこない。

尹 : 考えが改まったつもりでも、戦後も社会の根底は変わっていないから、その惰性が体に残ってしまった。だから体に関する技法は従来を引き継いでそのままだった。

赤坂:もちろん、私はかつての軍国主義の時代を体験していないので、実態を知っているわけではありません。ただ、「いまの日本は右傾化している」と言われているけれど、いまに始まったことではないとも思います。なにせ戦前も戦後もベースは同じだったわけですからね。

尹 : そう言われて思い出すのは、教師の風紀指導です。まるで陸軍の内務班の古参兵みたいでした。連帯責任だと言っては全員ビンタみたいな目に割りとあいました。
実際に軍隊にいた人から直に聞いた話や映画「兵隊ヤクザ」だとか小説『人間の條件』や『神聖喜劇』など軍隊経験があるか、それに近いところにいた人の描写でわかるのは、とにかく兵は理不尽に殴られていた様子です。それとまったく同じ光景でした。

赤坂:体罰がまかり通っていた時代だったのですね。司馬遼太郎がこういうことを書いていました。「陸軍にはその民族の土着性が出てしまう」。日本の陸軍だと誰にも教えられないのに上下が密着してしまう。それは土着の何かが極限状態で出てしまったのだというわけです。

ブラジャーの本来の役割がわからない

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尹 :土着性について言えば、「やればできる」といった按配の精神力も特徴として挙げることができます。心が体をひっぱることもあるし、がんばればできることもあるので嘘ではない。
けれども、がんばってもどうしようもないものはどうしようもない。そのときに心を持ち出すと、たいへんなことになります。体を無視して心の思い込で突っ走る。こういう文化はいつから始まったのか。謎です。

赤坂 : いつからかはわからない。でも明治で身体作法がまったく変わってしまったのは確か。このインパクトは大きいし、日本人が思っているよりもずいぶんメンタリティに影響があったのだと思います。
日本は神が明文化されていないけれど、「天とつながる」とかそういう感覚は身体所作や帯を締めるだとかの中にあったと思います。

友だちに下着屋さんがいて、「ブラジャーは何のためにするものだと思う?」と尋ねられ、「乳当てでしょう」と答えたら、「そうではない」というのです。あれは本来は上体を立てるためにあるのだと。上体を立てるビスチェの簡易版がブラジャーだというわけです。

おそらく日本では、そうした体を立てる役割は帯が担っていた。でも帯を外してしまい、かといってブラジャーの機能も知らないから体の立て方がわからない。それなら腹の力も抜けて当然です。それだけではなく「日本人にはみぞおちがなくなってしまった」と、ある人が嘆いていました。みぞおちが堅いとかのレベルではなく、「ない」というのです。

尹 : 帯も今では誤解されているようです。呉服店を営む知人に聞くと、帯がいまのように太くなり、また太鼓に結ぶようになったのは江戸になってからのことだそうです。しかも、それはあくまで一部の上流階級だけの話で庶民にまで広がったのは昭和になってから。

だいたい庶民は帯ほど太くないような紐でゆるく縛っていた。洋服の上からでも腰を紐で縛ると、動きにつながりが出て動きやすくなります。それでわかるのは、太い帯をしていたら、身軽に動くにはちょっと邪魔だということです。太い帯は身軽に動かないでいい人たちのものだったのでしょう。

赤坂 : あ! 帯は上体を立てたり腹をくくれたりするいいものと思いつつ、現実問題として和服の帯は苦しかった。それは帯が太いんですね。

ウエストと腰の位置は違う

尹 : 僕は韓氏意拳という中国武術を学んでいます。師である光岡英稔導師に先日「腰はどこにあると思いますか」と尋ねられました。おそらく、そういう質問をされたら、だいたいは体側の腰骨の辺りを触ると思います。僕もそうでした。
しかし、そこはウエストであって腰ではないのです。袴の腰板があたるような背側が腰です。

同じような誤解は腹にもあって、どうしても僕らは腹と聞くと腹筋をイメージしてしまいます。でも臍下のところが本来の腹。つまり、昔といまで言葉は同じでも指し示す内容が違っています。言葉と体がずれているのですから、言葉から体を探ってもわからいない。

だから重い物をもつときに「腰を入れろ」と言われてもピンとこない。わかるのは腕とか太ももとか部位の筋肉に力を入れることであって、腰を入れて上半身と下半身を一致させる、協調させるなんてわからない。

赤坂 :やはり体はねじれないほうがいいのですか。

尹 : 体がねじれるとバランスが崩れます。そうするとタイムラグが起きるし、ねじれたまま力を入れると怪我をします。だからといって表面的に上半身と下半身の動きを一致させればいいかというとそうでもない。

赤坂 : なるほど。私はバイクに乗っていますが、スクーターに乗ったとき異様に怖かったんです。それは上と下とが違う動きをしてねじれるからだったんですね。

「鍛わる」という語はなぜないのか?

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赤坂 :
そういえば、稲尾和久みたいな昔の野球選手は毎回登板してもあまり怪我をしなかった。あれも上下の動きが比較的そろっていたからでしょうか。甲野善紀先生は「稲尾は子供の頃、櫓を漕いでいたから体ができていた」といったことを書いていました。

そこで言いたいのは、「鍛わる」という自動詞があるべきだ!「鍛える」という他動詞はありますが、「鍛わる」とは言わない。でも、「鍛わる」と「鍛える」は違う。
稲尾は櫓を漕いで体を「鍛えていた」わけではなく、漕いでいたら「鍛わった!!」。鍛えるが他動詞しかないのが腑に落ちないのです。

力説しますが(笑)、俳優のシュワルツェネッガーにもあって、彼がオーストリアに住んでいた少年の頃、毎日おばあちゃんの家に石炭を運んでいた。シュワルツェネッガーはボディビルをやる前に既に鍛わっていた。
ボディビルをやるとだいたい体を壊すのですが、それでも壊れずにアクションスターになれたのは、きっと石炭運びで鍛わっていたから。

尹 : 以前、インタビューした朝青龍も似たような話をしていました。毎日水を運んでいたりしていたようですから。
「鍛わる」という言葉がなかったのは、日常の所作が体を自然と練っていたからではないでしょうか。重い物を担いだり、運んだりするのが当たり前なので、意識もされなかった。鍛える対象はあくまでも鉄だとか、体ではない自分の外のもの。

赤坂 : そうかもしれません。『体の知性を取り戻す』の中に、工事現場でアルバイトしていた際、セメント袋をひょいと担ぐ作業員のエピソードが出てきました。ああいうのは鍛わった体の典型ですよね。

尹 : はい。セメント袋のひとつあたりの重さは20年前まで40キロありました。でも、10年くらい前から25キロに減らされました。たぶん重い物を何気なく担ぐ人が減ったからではないでしょうか。あれをウエイトリフティングの要領で担ぐのは無理です。作業員のおじさんが難なく担げたのは、重労働をそうだと感じさせない体の使い方ができたからでしょう。

赤坂 : だと思います。ウエイトだと持ち上げたりする際、筋肉の部位を「意識して」というけれど、意識せずに省エネでやらないと翌日に使い物になりませんよ。 意識して筋繊維を傷つけて「太くなった」と喜ぶけれど、それが日常ならそんなムダなことをしないはず。 (Vol.3へ続く)


2015年3月2日
撮影:渡辺孝徳