vol.1 正解はない。ただし秩序に傾かず、アナーキーにもつかない

第8号 一級建築士 岡啓輔
Vol.1 正解はない。ただし秩序に傾かず、アナーキーにもつかない

岡さんはセルフビルドで蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)を作られています。作る喜びに溢れている様が建物から滲み出ていると感じました。
 そこでまずは作るということについて伺います。人間は四足歩行から直立二足歩行を始めて、かつて前足だった手を器用に使うようになり、物を作るようになったわけです。手ずから作るという行為。それがやがて概念として「自由」と呼ばれる基礎になったと思います。

 ところが人間は自由や創造性の土台である「作ること」を止めるようになっています。自分の生活を振り返れば明らかです。衣食住の全てを自ら調達していないのに暮らせています。自分で料理していると言ったところで肉や野菜を買ってきているわけです。自分の手で何かを作り出す。そういう機会も能力もどんどん失っています。得たはずの自由を捨てることで消費の選択が広がっているとも言えます。

 2018年末に開催された蟻鱒鳶ルの見学会に私が参加して感じたのは、岡さんの身体が考えて作っているんだということでした。「身体で考える」と言うと、今どきは「は?」と思われるでしょうね。
 たとえばメソポタミアで生まれた尺度の単位「キュビット」は肘の長さに始まったわけで、また中国では手の親指と中指を広げた長さを「尺」と定めました。かつて人は自分の身体のスケールを使って世界について考えてきた。相当長い間、そうやって考え、ものを作ってきた。自由の基礎には身体で考えることがあったと思います。
そういう意味でも興味深いのは、蟻鱒鳶ルのコンクリートの打設の高さは、岡さんの腕の長さを基準として70センチに決められたということです。

岡:なんで腕の長さかと言うと、まずコンクリートの建築物には型枠が必要です。鉄筋を組み上げてその周りに型枠を作り、そこにコンクリートを流し込んでいくんですが、型枠の中に落ち葉とか紙くずといったゴミが入ってしまうことがけっこうあります。
コンクリートを打ち継いで高くしていくのに、ゴミがあると打ち継ぎ面の接着が弱くなります。本来ならゴミは取り除くんです。
 だけど、ビルの建設だとだいたい型枠は3~4メートルの高さになるから拾えないわけです。でも、自分の腕の長さなら届く。だから70センチに決めました。


蟻鱒鳶ル外観(撮影・尹雄大)

蟻鱒鳶ル内部(撮影・尹雄大)

建築に通じる踊りの即興

そういうところにも身体で考えた軌跡が見られます。身体で言えば、「舞踏」の創始者である土方巽の弟子、和栗由紀夫さんのもとで踊りもされていたんですよね? コンクリートを現場で練り、また70センチの高さで打ち継いでいくことは建築の即興を可能にしたと著書の『バベる!』にも書かれています。踊りで体感した即興が建築にも影響していると思います。
そこで踊りについてお尋ねしますが、その場で何か動きが訪れるまでにどういう状態でいようと心がけていますか?

岡:踊るときにすごく大切にしようと思っているのは、「何を捕まえて、どう踊りが発生していくか」です。スタートがとても大切です。最近はなかなか踊る機会もなくて、昨年末に久しぶりに踊ったらすごく楽しかったんですけど、やっぱり何を捕まえて踊りにもっていくかを考えますね。

 和栗さんのところで踊りを学んでいたけれど、ある時から「一人で考えなきゃな」と思って、それで歌舞伎町のすぐ近くの安アパートを借りました。歌舞伎町になんてことのない丸い彫刻が置いてあって、仕事が終わって暇なときは必ず石の上に立つことにしていたんですよ。歌舞伎町のど真ん中で立って、おもしろそうな雰囲気になると体が動き出す。
 でも、辺りにいる人にバカにされたりもするわけです。アホじゃないの?という視線を向けられると、「ああ、寂しいな。仕事もつまんねぇし」という感じになって、それはそれでそういうところから動きを掴んで踊りにもっていく。そういう自分なりの練習はしていました。

そのときの状態は建築にも反映されていますか?

岡:そうだと思ってますし、そうしたいです。どう反映されているかは、すぐには言えないけれど…。でも、踊りを教わっていてわかったのは、やっぱり頭でっかちだから教わったことをやろうとすることでした。「ここでくるっと回ってジャンプして、後ろ向きにパッと手を広げろ」と言われたら、それをやろうとする。で、言われた通りにやると「違う!」と怒られる。

 師匠には「そういうのはお客さん全員に見抜かれている。最終的に言われた通りになったとしても、自分の考えていることをも自分の体が追い越すような動きをしていかないと」と言われました。そうやって自分の考えてもみなかった動きが生まれたとき、「なんか今のおもしろい」と思って、次の動きが作動する。

「そういうことをしなきゃいけない。頭が考えて身体がくっついていくんじゃない。追い越す。そして考え、また追い越す。そうでないと踊りはおもしろくない」と言われました。
蟻鱒鳶ルでも、できたものを誰よりも観察して、「こういうものができちゃったか。だとしたら、もうちょっとここをこういう風に倒そうかな」という具合にできたものから考えて入れ込むようにしてます。

蟻鱒鳶ル自体がと言いますか、建っている場の力と言いますか、それらが持っている何らかの必然性とそれを追い越していく動きの中で作っていくから、決して奇抜に流れないんですね。

岡:奇抜なことをしようとは思ってないです。ただ新しい考え方で作っているのだとしたら、新しいデザインはそこにあるべきだろう。その新しい考えに自然と素直に従って作れば、素直に新しい形は生まれる。そう思っています。
自分がどういう風に考えているかが結局は大切で、後はそこに従うだけ。自分が考えた言葉や思いにまずは従う。それを追い越していくこともあるから、そこからまた得る。作って考えて、そこから何かもらってを繰り返している。そんな気がします。

人間の考え、作るものに正解はない

学術界にはセルフビルドを勧めたがらない人がいると聞きました。作りきれないから、素人が迂闊に手を出すものじゃないというのもあるでしょうけれど、それだけではなくて、建築にはある種の正解があって、そこを目指すという考えがあるんじゃないでしょうか。セルフビルドは、自分なりの思いや作る喜びが出発点で必ずしも正解やクオリティを問わない。自分なりの完成度を目指すから、学術的な考えとは相容れないのですかね。

岡:今の話に直接の答えにならないと思いますが、僕が今まで生きてきた中でいちばん感動したのは、17歳の時に数学をコツコツひとりで学んでいる友人からクルト・ゲーデルの無矛盾性の証明の話を教わったことです。

 たぶん僕が説明しても間違った解説にしかならないんですけど。ゲーデルという数学者がいまして、先端というよりは数学の根本を考え抜きました。20世紀の天才はアインシュタインとゲーデルと言っていいくらいの重要なことをやり抜いた人です。
ここからが僕の理解なんですが、ゲーデルは「人間の作れるもので正解に至るものはない」というのを数学で証明しちゃった。数学的に矛盾のない完璧な答えに行きつけはしないし、人間が考えるもの、作るものにはずっと矛盾が含まれている。それを証明してしまった。

 そうだと知って、ものすごく感動したんですよ。僕はそれまで「正解はどこにあるんだろう」と思って色々学んでいました。「世の中の真理はどこにあるんだ」と考えていたら「そんなものないよ。数学的に証明されているんだよ」と言われて「えー!」ってなった。でも、ということは、人類は永遠に考え続けられるわけです。
誰かが途中で答えを出したら、「そこで悩んでんの? でも、それ◯年前に◯さんが答え出したよ。もう終わってるよ」と言われるわけです。こんな風に考えるべきことが終わって行ったら、考えることはなくなっていく。でも世界に答えないんだとわかって、救われた気がします。

 特に建築は最近つまらなくなりがちで、答えっぽいことを言いがちなんですよね。

どうしてそんなことになっているんですか?

岡:お金がないのと、後は何がいちばん建築家をビビらせるかというのも関わっています。たとえば工芸家や彫刻家だと大きいと言っても、ビルほどではないサイズの作品を何ヶ月もかけて作るわけです。そうすると矛盾のない完璧に近そうなものを作れるんです。

 だけど建築はとても大きくて、しかも他人のお金や技術を投入して作っていくもんだから、大抵できたものは矛盾だらけ。どんな立派な建築家がコンセプトについて語っていても、実際に作ったものの裏に回ると「なんだよ、全然できてねぇじゃん。まあ、この人の言っている理屈はこの辺だとわかるけれど、そっちの方になるとダメだな」ということが多い。見ればわかってしまう矛盾が建築には溢れていて、だから建築家は答えに寄りがちになってしまう。「これはこういうものだよね。はい、これ答え」みたいな。

 自分で考えていると矛盾は解決しないし、解決する時間もないわけです。でも、そもそも建築は矛盾が溢れるものだと思ってます。学者然とした人が丁寧に考えて、理路整然と語れるものではなくて、そもそもが矛盾だらけでそれをひっくるめて進まないとダメなもの。

岡さんは正解がないからといって決してアナーキーに行かない。むしろ正解がないからこそ自分のコアを探求している。なんでもありに向かわなかったのはなぜです?

岡:何ででしょうね。何の矛盾もない世界をコスモスと言い、それに対してぐちゃぐちゃで筋道がないのをカオスと言います。一点の矛盾もないコスモスともカオスとも違って、誰かが言ってましたがカオスモス。それがいいし、とても豊穣な世界だと思ってます。こっちでもそっちでもない。そういうところを目指さないといけないと思っていて、ふたつとも違うなって最初から思ってました。

尹:あっちとこっちの真ん中を行けばカオスモスになるわけでもないし、それこそ基準がないと大抵は引き裂かれて葛藤しますよね。自分の中でどう折り合いをつけて蟻鱒鳶ルとして建築が収斂しているんですか?

岡:ちょっと意識しないとどちらかに寄ってしまうと思っているので、そのどちらにも寄らない方法は考えていますね。通常は自分だけのデザインなり考え方をまとめていくと、どんどん偏っていくんです。建築家がよくやるのは電気の配線を正確に隠したり、自分だけのデザインが正確に見えるような工夫をしまくるんですけど、そんなことはどうでもいいこと。(続く)


2019年3月11日
撮影:©️ 田中良子