存在の奏でる音楽

雑報 星の航海術

ゴールデンウィーク中、「今を生きる人の集い」に行ってきた。
タイトルだけ聞くと、ちょっと自己啓発セミナーっぽいけれど、そうじゃなくて韓氏意拳、日本代表の光岡英稔師や武術家で著述家の甲野善紀先生や評論家で合気道家の内田樹さん、精神科医の名越康文さんをはじめ、各界で活躍されている方を招き、体を通じて物事を学ぼうというイベントだ。

さっき「自己啓発」という文言を使ったけれど、その手の本をパラパラと見る限り、自己の啓発というよりは他人の考えに乗っ取られることを快感とするよう誘うばかりで、自己を啓発するとはおよそ遠い世界であり、そういう意味では「今を生きる人の集い」は、自らの蒙を啓こうという試み取り組みがない限り、まるで意味をなさない催しなのかもしれない。

実は、昨年開催された会に参加したことがきっかけで、このサイトやワークショップを行うきっかけにもなった。そのことはここに書いてあるけれど、あれから一年経ったかと思うとなにやら感慨深い。そんな思いで滋賀へと向かった。

今回の催しの基本となるテーマは「人の身体が新たな環境を受け入れることとは」であり、具体的には「受け」を中心に各講師が体術や剣、ナイフといった切り口で講義を行う形式だった。それにしても、なにゆえ「受け」なのか。

東日本大震災と福島第一原発の事故により、僕らは好むと好まざるを得ず、どうにもならない現実を突きつけられて生きていくほかに状況にある。甚大な被災を受けた人なら生活再建もままならない事態に喘ぎ、剥き出しの現実の苛酷さは否が応でも知っているだろう。
でも、たいていの人は「どうやら予想だにしない現実が待ち構えているらしい」と苛烈な現実はあくまでモニター越しの、二次的なものとして受け止めているだろう。

たとえ放射性物質による汚染を恐れて生きざるを得ない環境にあると言っても、言葉のごまかしが効く世界で生きている。生きることができてしまう。

「政府が言うから問題ない」「いや、あの情報は本当は正しくない」「あんな考えをしているからいっこうによくならない」。

あれとこれとに関する情報が溢れかえって、現実はひとつのはずだけれど、「人の数だけ現実はあるからね」という収まり方を許してしまうような余裕があってそれなりの生活設計なんかできてしまって。だから近頃じゃ東京じゃタワーマンションの売れ行きがいいそうだよ。

自分にとっての現実を支えるのは毎日のお決まりの通勤、通学スタイルなのだ。その外にあることは現実とは呼ばないのだとしたら、僕らは眠りこけることを生きることだと思うように、いつしかなってしまったらしい。

琵琶湖畔にかかる虹。

現実に対して受け身にまわった途端、あらゆる行為は後手になる。
情報の収集に努め、正しい判断をしてから行動する。その名目で何事かを行うことを知的誠実さと思い込んだとしても、実際のところは現実からの周回遅れを生きることになってしまう。

差し迫った危機に対するにあたって、本当に受けてしまっては身動きできない。現実を受容しつつ、それに流されず、とどまらず歩んでいくにはどうすればいいか。
「今を生きる人の集い」とは、それを体を通じて学ぶ場であったかと思う。

最終日、久しぶりに友人と会い、しゃべった。彼女は他者に関わることの問題やいったいこれから自分が何をしたらいいのか。そもそも自分に何かをする能力というものがあるのか、についての疑問を僕に投げかけてきた。

根源的な問題というのは、僕らがこうして生きている事実の根底で地下水のように流れ続けており、だからうまいことを言うレベルの言葉で一時は納得がいったとしても、それで解決されることはなく、たぶん死ぬまであり続ける問題で、だからその場をやり過ごそうとしたところで、なんにもなりはしない。

彼女には具体的なことは何も言えなかった。ただ言えるとしたら、生きている時間まるごとかけて取り組むしかないのだろうということだった。
だからといって、「時間をかけるしかない」という言ってしまっては、その苦しい心持ちを晴らすことにまったくならない。それに「時間をかけるしかない」というのは、冗長さを自分に与える理由になりかねない。

つまりは悩むことと考えることを混同してしまい、問題をいじくりまわすことが考えることだというふうに誤解してしまう。
僕はその誤解を40年近くやってきたので、できれば年若い人には、「止したがいい」と言いたい。そうでないと時間を盗まれることになる。

焦慮のあいだは自分の時間を生きることはない。
時間を短縮しようと行為を早めても、それは心中の忙しさを生むことにしかならず、行為の目指す目標に己を奪われる。やらなければいけないことが頭を支配はしても、実際に何も行われることはない。ただ時が虚しく過ぎるだけだ。

だが自己が自己であり続けるとき時は圧縮され、そこで得たことは、まだ見ぬこれからに送り込まれる。その時間は誰からも奪われることはない。

自己が自己であり続けるとは、自分にウソをつくようなことをしないということで、そういう真摯さが必要なのだろう。平易に言えば、嫌なことはしない。好きなことをする。

好きなことをするというときの「好き」とは、自分の身から遠い「そうであればいいのに」という類の願望ではなく、私の身そのものなのだ。
他人の思惑に媚びるのでも焦るのでもなく。私の存在自体の奏でる音に耳を傾けなくては。