私の心が横に揺れるとき

2022年06月23日

 2014年7月、ひめゆり平和資料記念館を訪れた。館内に展示された写真のひとつにレインコートを着、自転車に乗ろうとする学生の姿を認めた。ぼんやりと師範学校や第一女学校に通える階層について思いを馳せながら、ひめゆり学徒隊の学生たちの証言ビデオのコーナーに行き当たった。彼女らの語りを耳にして驚愕した。聞いた限りの彼女たちの言葉が標準語だったからだ。

 言語の標準化についていえば、戦前から戦後ー地域によっては1970年代前半までーにかけて、標準語への是正を図るべく、沖縄の学校に導入されていた方言札が及ぼした影響は大いにあるだろう。
 と同時に生活史の聞き取り調査では、1960年代に本島に生まれた男性が先島の親戚と話した際、言葉がわからず、標準語で話したという例やそれに似た証言をいくつか聞いた。

 ただし、ここでの「標準語」はひめゆり学徒隊の彼女らの話すようなものではなく、ヤマトグチも混ぜた標準ウチナーグチだったのではないかと推測される。いくら標準語の導入が図られていたとはいえ、生活の中で培われた言葉が一挙に標準化されるわけはない。まして近年の言語学では、東京発の標準語と「首里・那覇の沖縄語の差異は、英語とドイツ語。あるいはイタリア語とフランス語との差異に匹敵する。もしくはそれより大きい」とすら指摘されているという。だからこその写真の女性のレインコートと自転車なのだ。生活が、身体観が変わらない限り、言語の抑揚までが素直に変わるというのはないことだろう。

 ふと40年前ソウルで大伯母に会った日を思い出した。彼女は戦前、女学校に通っていた。エリート層に属していた彼女の話す日本語に、11歳の私は震えた。その日に至るまで聞いたことのない美しい日本語だったからだ。耳にしたことがないのも当然だった。大伯母の話す日本語を支えていた帝国はとっくに崩壊していたのだから。

 ひめゆり学徒隊の生き残った方たちの証言を映像で見て、私はソウルで聞いた、あの滑らかで美しい日本語を思い出した。そうして想う。女学生は笑いさざめきくときも、1945年6月18日の日本軍による解散命令が発された後の、荒崎の岬へ向かう絶望に満ちた道行きも、あの彫琢された日本語で縁取られていたのだろうかと。

2022年06月17日

 信田さよ子さんと上間陽子さんの対談『言葉を失ったあとで』を読んだ。信田さんは長らくアルコール依存症やDV問題に関わってきたカウンセラーであり、上間さんは大学教授として沖縄の夜の街で働く女性たちや若年出産者の聞き取り調査をしている。
 聞く技において優れている両人が相対するのであれば、書名は「言葉を失ったあと」になって当然だろう。言葉を失ったあとでもなお聞くとしたら。あるいは言葉を失わざるを得ない場に遭遇してもなお言葉を紡ぐとしたら。それくらい試練のときをふたりは体験されてこられたのだ。

 本書の中で上間さんが実践記録という教育学の分野に言及した際、坂田和子という教員の取り組みについてこう述べている。

「いじめが去年起こった学級を持って、去年の学級で起きたいじめ問題を解決するという実践があるんですね」

 この回文のような言いまわしに触れ、私は2年前、上間陽子さんにインタビューした際の光景を思い出した。取材にあたってあらかじめ目を通した資料の中に、学生からの質問に答える記事があった。「なぜ教育学を専攻したのか?」の問いに彼女は「社会を変えるには教育しか変える場所がない」と答えていた。
 何かここには上間さんの思いが留まっている気配を感じた。その場ではそう答えても、原稿に目を通して校正の機会があったのなら「社会を変えるには教育しかない」と改めてもおかしくないし、その方が通りは良くなる。
 けれども、上間陽子という人物は、ひょっとしたら「社会を変えるには教育しか変える場所がない」という言葉が渦を巻いている状態の人なのではないか。そう思ってインタビューに臨んだ。

 「いじめが去年起こった学級を持って、去年の学級で起きたいじめ問題を解決するという実践があるんですね」を「彼女は去年いじめが起きた学級の担任になり、その問題を解決するという実践を行いました」のようには彼女は書かない。いじめ・去年・学級が繰り返される前者のように書かざるを得ないもの。それこそが「言葉を失ったあと」に続くものではないか。それは何か?は端的に語られない。だが、読み手は地にのべられた影を認めるだろう。

 この本は「どのようにすれば傾聴ができますか?」と言った問いが、コミュニケーションへの関心の高さからのものだとしても、それは当人の思い込みに過ぎないことを暴露するような内容だ。
 ノウハウという結論を知ることが興味を持った事柄への接近に思えて、実際はそこから遠ざかるルートを選んでいることに気付かされる。ノウハウが仮に“それなり”の結果をもたらしたとしてもだ。何が見えていないのか。聞こえていないのか。人が言葉を失うことなく話せてしまうのは、ひょっとしたら身の内に育んだ「怖れ」がそうさせているのかもしれない。

2022年06月08日

 土地の記憶は史書だけに綴られるものではなく、匂いや湿度としても堆積されている。それに触れると、いまはもう亡くなってしまった人やものの気配につながれる。
 先日、次の引越し先の候補でもある木曽に数日泊まった。地元の人に案内された木曽馬の牧場で馬を見ていたところ、古老が近づいて来た。問わず語りに言う。

「この辺りに馬市があって、ほれ、あそこに見える峠。あれを越えて馬5、6頭を連れて来たもんよ。仲買人がおって、そりゃたくさんの馬がおった。百姓やりながら馬を飼っておった」

 『遠野物語』に馬喰の話が書いてあったはず。きっと峠の道は人ひとりが通れるほどの狭さに違いない。そう思い尋ねた。

「そう、狭い。途中に川があって馬が怖がって渡りたがらん。目隠しをして渡らせた人もおった。女衆が笹を刈って背負って、笹は軽いもんだから」

 翁は笹を飼葉代わりにしたのだと続けた。

「朝早くから親に追い立てられて子供には辛いことよ」と老爺は述懐した。

 民俗学の本で読んだ、旧い記憶の話のはずだったことを私は実地に聞いた。齢八十三の古老の話は戦後間もない時節、おそらく1947年あたりのこと。都会ではまだ焼け跡が残り闇市が立ち、ガード下には「浮浪児」たちが肩寄せあって夜を過ごしていた。街頭には占領軍のMPが立ち、米軍のジープやトラックは走ってはいても国産車の数はまだまばらだったろう。
 とはいえ、「今じゃ機械の世の中で おまけに僕はエンジニア」(「ヨイトマケの唄」)へと向かう時代の跫音と平仄を合わせるようにして、暮らしは復興しつつあった。その足並みの一方で、子供が馬を追って、狭くて急峻な峠道をときにひとりで越えていた。

「今じゃ怖くて通れんよ」と言い、老人は話を終えた。その「怖くて」に私は『遠野物語』の“山人”の描写を思い出す。

山口村の吉兵衛という家の主人、根子立という山に入り、笹を苅りて束となし担ぎて立上らんとする時、笹原の上を風の吹き渡るに心づきて見れば、奥の方なる林の中より若き女の穉児を負いたるが笹原の上を歩みて此方へ来るなり。きわめてあでやかなる女にて、これも長き黒髪を垂れたり。児を結いつけたる紐は藤の蔓にて、着たる衣類は世の常の縞物なれど、裾のあたりぼろぼろに破れたるを、いろいろの木の葉などを添えて綴りたり。足は地に着くとも覚えず。事もなげに此方に近より、男のすぐ前を通りて何方へか行き過ぎたり。この人はその折の怖ろしさより煩い始めて、久しく病みてありしが、近きころ亡せたり

 少し足を引き摺り、軽トラックに乗り込むと老爺は走り去った。私はいま耳にしたことが昔の風が吹いていった音のように聞いた。

2022年06月01日

 ヤイコシラムスイェ。この言葉を教えてくれたのは、北海道に住む友人だった。アイヌの言葉で「考える」「思いをめぐらす」という意味だという。直訳すれば「私が私に向かって自分の心を揺らす」。スイェは横に振れるさまを表すと聞いた。

 次に出版する書籍は、聞くこと話すことに関してで、原稿に取り掛かりってしばらく、私は私に向けて自分の心を揺らし始めた。

 “ああ”という驚き、嘆息を表す言葉がある。“ああ”には感嘆という意味があると辞書は教えてくれる。けれども、“ああ”はなぜ“ああ”なのかについて考えていくと“ああ”には意味がないと気づくだろう。“ああ”はなぜ「あ」という日本語の母音の冒頭を飾る強い音を重ねたのか。重ねてしまったのか。

 そのことについて考えていくと、なぜ海は「う・み」なのかと、私は私に向かって自分の心をさらに揺らした。嘆息とは、ため息とともに表出してしまった深い感じ入りだ。きっと息を吐く音が「ああ」だったのだ。それは意味以前の音の連なり。言葉の起源は音だった。
最初に海を見たときのあの海原の広さ青さ、波濤の轟き、白い泡を含んだ波の寄せては引くさま。島にいた太古の人はこれらのことを体験し、身の内からこぼれ出たものがあった。吐く息が伴って身体からこぼれ出たのが「う・み」で、そのときそれ以外になかった。
 うみがうみであることに意味はない。意味を超えているからこそ強い意味を帯びており、ひとたびそれを口にすると周囲を変容させてしまう。それからはもう「うみ」をうみとしか呼べなくなる。そのようにしか現実を捉えられなくなる。それを昔の人は、ことだま(言霊)と呼んだ。起きていることと言葉とは同じであり、そこになぜ?も意味も問えない。翻って言えば、言葉にするとは事実になることだ。うみと呼ぶからうみはうみになるのだ。