事実を前にプレゼンテーションと詭弁に勤しむ言説めいた言説こそ論破しなくてはならない。
破却する論を支えるのは、決して滑らかに語ることができない体験の厚み。
生きている間に、生きているという感覚が根こそぎにされてしまう。そんな体験が我が身に降りかかったとする。そういう事態が想像できるだろうか。そうなったときに、この社会が評価するような滑らかな言葉で語れるだろうか。「本当に話せない」という我が身を引き裂くような、晴れることのない思いが胸奥に腹に全身に蟠ったまま生きている人が現にいる。そんな切迫さが、コミュニケーション能力において推奨されている通りの共感や肯定を示すことで太刀打ちできるはずもない。
それどころか、覚えたノウハウで対応しては、相手の話を聞いていないという態度を明らかにすることにしかならないだろう。なぜなら技法に寄りかかってしまうと、話されたことそのものではなく解釈に基づいて話を聞いていることに次第に気づけなくなるからだ。