凱風館にて

雑報 星の航海術

先日、日本韓氏意拳学会会長の光岡英稔老師が著述家で合気道家の内田樹さんのご自宅兼道場の凱風館でワークショップを開かれるというので、お伴した。

お伴というのも、いま光岡先生と内田さんとの対談をまとめる仕事をしており、企画の内容というのは、荒天の世にふさわしい生き方を武から考えるというもので、本としてまとめるにあたっての最後の対談の時間をワークショップの前に設けてただいた。

僕は合気道の成り立ち(大本教とのかかわりだとか)についてそれなりに知ってはいても、技術体系については深くは知らない。韓氏意拳が技や術、型という概念を重視しないだけに、いったいどうなるのだろうと興味津々だった。

おふたりの対談で、僕がもっとも関心をもって耳を傾けたのは、武の遣い手は「やることができる」がゆえに「やらない節度をもてる」のであり、それは理屈ではないということだ。だから、やれる技量の持ち主は相手に敬意を払う。一撃で相手の命をとる。

ところで、この「理屈ではない」という文言は、何にでも付着させることができる便利な言葉だ。

たとえば道徳や伝統周りの話題には、たかだか数十年、長くて100年程度の時間しか生きていない個人の経験を根拠に「そうだからそう」「昔からそう決まっている」という言葉の補強に「理屈ではない」を持ち出す人がいる。
自分とは違う考え、価値観、体験、感性を否定するべく持ち出し、「理屈を言うな」と言いたいがために「理屈ではない」と言う。

「理屈ではない」という言葉は、自己の肯定からではなく、否定から生じるものではないかと僕は感じている。それは自分の感じたことを筋道立って語るという人間的な行為に置き直すには、感じたことが圧倒的過ぎるときに否応なく訪れてしまう自己否定の感覚。
自分の言葉では追いつかない。言葉にできない、というときの「ない」の感覚が大事ではないかと思う。

寒い冬、氷に触れて手がくっついてしまう経験をした人がいるかと思うが、僕は「理屈ではない」というとき、あの光景を憶う。下手に剥がそうとすると、手の皮は剥けてしまう。
世界のむき出しの姿に触れたとき、安易に語ることができなくなってしまうのは、ヒリヒリとした皮膚のはりつく感じに似ている。のっぴきならなさに圧倒されたとき、僕らは言葉を失う。失うことによってしか知り得ないことがある。

光岡先生が「理屈ではない」にあたって例にあげたのは、ご自身のお子さんが幼少期独特の残酷さで虫を殺していたのだが、何も注意しなくても数回行った後、ぴたりと止めたという話だった。

僕はその話のもたらす感覚がなんとなくわかった。

自分にも経験があるが、アリを靴底ですりつぶしたときのあの感じ。踏みつけた小さなアリを殺すのに、物理的な抵抗は感じない。足元でのたうち回る感覚も味合わない。断末魔の悲鳴を聞くこともない。

けれども、さっきまで6本の足で動いていたアリがアスファルトの上で黒い塊になった姿を見たときのあの得も言われぬ感じは、靴底を通じて確実に伝わってきた。感覚できない感覚が生命にはあるのではないか。生命の輪郭めいたものに触れた感じが、あの虫を殺すという行為に見出した気がする。
その感じは直線的に罪悪感というものに結びつくものではないが、興味本位で殺すことを「ためらわせる」。ためらいという全身を以ての抑制を「あの感じ」に深く見出す中で自得していくように思う。

そういった自得について僕はふたりの対談で感じた。

稽古後には宴席が設けられ、夜も深まりそろそろお開きの運びとなったのだが、再び道場で剣をもちいた稽古が即興で始まった。

光岡先生が右手に剣をもち、僕は双手で向き合う。打ち込んできた剣とカッと交わったと思った瞬間、先生の剣は僕の首筋を、僕の剣は先生の右篭手につけていた。先生は「師を殺しにきたね。なかなかいい。それくらいでないと」とおっしゃった。
僕はそうするつもりもなく自然と反応していたので、ちょっと驚いた。

あれが真剣であれば(そもそも光る刃を前にして自然と反応することは難しいけれど)、僕は頸動脈を切られ、あっさりと死んでいたろうけれど、先生の打ち込みに対するこちらの変化はまるで作為がなかったので、もし実際の場面であれば爽やかな気分で、悔いなく死ねたのではないかと思われて仕方なかった。

殺してはならない。この言葉が根をもっているのは、道徳や倫理ではなくそれらの手前にある、虫を殺したときの「あの感覚」だと僕は感じている。

殺してはならないと全身でわかっているものだけが生死を賭けた行いに自分の身を投げ出すことができるのではないか。自分の存在を慈しむからこそ、捧げることもできる。
殺すことが目的ではなく、こうして出会ってしまった存在について互いが身体をもって語る行為にも、それは似ている気がした。本当の本当のところ、白刃のひらめきにそう思うのは困難だろうけれど。

あのときの剣と剣とが交わった刹那、僕は目算も目的もない「ただそれだけの存在」だった。本当の瞬間には、あれやこれやと考え、幾つかの選択肢の中から自分の行動を選ぶことはできない。

できることと言えば、自分らしくあることしかできなくて、それは思い描かれた自分らしさではなく、「どうしようもない」自分で、それは生きていることのどうしよもなさ、語り尽くせなさ。そのような「どうしようもなさ」に還元されてしまった自分であるように思う。

絶体絶命のときにそこにただ立てるかどうか。技巧や賢しらではどうすることもできない断崖に立ったとき、それでも自分でいられるか。笑って首が刎ねられる時を迎えることができるだろうか。そんなことを感じた夜だった。