南会津にて

南会津に行きました。ワークショップ「生きるための文=体」の、さほどかっちりしていないお茶でも飲みながらお話しましょうバージョンを催しに。

少しくだけた感じがいいかもと思ったのは、招いていただいた吉田葉月さんの注文もあったからでして、そも彼女と出会ったのは一昨年の12月、東京で韓氏意拳の光岡英稔師と独立数学者の森田真生さん、ダンサーの山田うんさんとのワークショップでした。


3・11後、那須の避難所を経て、南会津に移動された吉田さんから「自分の周りの感度のいい女性に向けて話をして欲しい」と先日、依頼されました。
僕のワークショップは今夏、八王子の催しで行ったときは男の人が多かったですが、それまでは9割がたが女性でした。なぜなんだろう?と長らく思っていたけれど、先日博多へ行ってその謎がわかったような気がします。

あくまで僕の九州における交流の範囲で感じたことであるけれど、(東京だろうがどこだろうが遍在しているなと感じることでもあるけれど)、それは男の話す言葉以外はローカルだという気風で、九州は南に下るほどにそれを感じる。
先日も端的に男同士の会話とは、所有している言語が社会的なヒエラルキーの中でどこに位置するか?を確かめあうような経験をしたのだけど、これがつらいのはおしゃべりにはならないこと。これを「ならでは」という文化と呼んでいいものかわからないけれど、僕の感じる九州っぽさのひとつかもしれない。

初対面の人間となぜ角逐しなくてはならないのか意味がわからない。話す内容に正解を求めるんじゃなくて、もっと縁取りだとかディテールに涎垂らすような流れじゃダメですか?って気分になる。

僕のいう「男」は性の問題ではなく、社会的な役割を己にあてはめて、それが不動の男性性だと思ってしまったことで生まれてしまう「男」で(だから、よしながふみの「大奥」は男女逆転ではなく、男とは社会的な生物なんだということをめぐる話なわけです)、その男の話す言葉がそのまま現行社会のヒエラルキーを如実に表すものだとされるのだったら、女の話す言葉は一方的にローカルにさせられてしまった言語というふうにされて、いまでは表向きにはなかったことになっているけれど、主婦感覚や主婦目線でコメントを求められる光景がやっぱりあって、社会の中で要領を得た言葉にならない自前の言葉を持ち得ないことに、自分の才覚のなさという評価を与えてしまっている女性たちは多いんじゃないか?

手を介して言葉の感覚を伝えるの図

そういう人は、自分が何かを語ることではなく、自分の語る言葉について疑問を抱いている。けれど腕まくりして何かを語りたがる人は、大きな問いを立てることを忘れている。

と、そんなことを思って南会津に向かい、6時間あまりを過ごしました。いらっしゃった方は総勢で5人。男性はひとりで、その方は政治家でした。これまで会ったことのない政治家のタイプで、柔らかい感覚への信頼をもっている人で、女性たちも物づくりに携わっている人やガイドをされている方など、みんな大きな声では語られることのない大事なことを知っている人たちのように感じました。

改めて僕たちは概念で綴られた、現実感ある現実を現実だと思っているけれど、現実感は突き詰めると、極めて個人的な感慨の上にしかなく、現実と関係がないのだ。

雪が降るころにまた来てください、と言われたのでまた行こうと思っています。

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