年の瀬によせて

雑報 星の航海術

昨日、ヤマダ電機に行ったら4万円代だったシャープのテレビ「AQUOS」が1万7000円に引き下げられていたので買った。大晦日のガキの使いの特番が見たいのと、ロンドンハーツとタモリ倶楽部が普段見たいので思い切って買ってしまったのだ。

地上デジタル放送に移行するまでは、ワンセグの小さな画面で見ていたので、それ以来だから久方ぶりのテレビとなる。買って早々思ったが、年が明けたら誰かに譲りたい。(希望される人がいたらご連絡ください。サイズは19インチです)

少しばかりテレビの仕事に携わっていたから、「なぜこういうふうになるか」はわかる。「こういうふう」を適当な言葉で表すのは難しいけれど、テレビが構成している現実と現実の違いが不明瞭になる感覚で、これに浸されるとわりとダウナーな気分になる。

僕はメディア批判をしたいわけじゃない。メディア批判をすることも必要だが、批判した途端、その刃を自分に向けないと嘘になる。
なぜかというと、批判の言葉に“自分の気づいたこと”を預けてしまうと、途端に大雑把な考えが自分を捉まえにかかるから、自分が見ようとしていたことが見えなくなる。
そうして僕らはマトリックスの世界に入って、自分が何について見ようとしていたのか。何について語ろうとしていたのか忘れてしまう。

テレビ番組が―それがバラエティだろうが報道だろうが―セッティングしようとする現実はメディアが一方的に僕らに信じさせようとしているのではなく、明らかに僕らの無意識の照り返しを受けている。

そう思うのは、何を見て、何を語ろうとしていたのか。不分明になる光景をこの一年たくさん見てきたからだ。たとえば脱原発運動に、外交問題に生活保護問題に時事ネタに。

誰とはわからない相手に礫を投げることに楽しみを覚えても、自分がぶれているから自分の見ているものもぶれて見える。そうして自分自身を打擲し始めることに自覚もないまま、自分を打ち据える。あらゆるところにこの傾向がはびこっている。

これは何もテレビだけでなく、テレビを批判する文言のあふれるネットにもある。街頭がリアルなのではなく、不分明さを現実と思う認識は渋谷にも霞が関にもあるだろう。

これからもっと現実的であることと現実の違いがわかりにくくなるだろう。
眠り込むことのほうが現実的だという声は次第に大きくなって、自分がそれについて訝しむ心の声はかきけされがちになって、いつしか焼き付けられた信念の言葉の体系で整然と話しだすかもしれない。

そうあって欲しい、そうあるべき、そうでなければならない現実は現実ではない。そういう焦りや切迫さが何かの行為に表れるとき、決まって他人だけでなく自分を押しやるような言葉使いになってしまう。志操堅固とは自分をスポイルすることのほうが往々にして多い。

たぶんこれからは荒れた、もっと暴力的な世になっていく。
けれども、どれほど世の中が暴力的で生に否定的でも、根こそぎにされてたまるかと思うし、根こそぎにされないところであらかじめ生きている、という設定で生きていく。

ブルトンのいう「生きること生きることを止めることは想像の中の解決だ。生は別のところにある」でいく。