ポルノを見るのをもう止めた

「わたしたちはセックスのことをいつも話題にしているわりに、女性のセクシュアリティに関して古い情報しか知らない」ナオミ・ウルフ『ヴァギナ』

 昨年末、映画館で「紙の月」を、自宅で「パーマネント野ばら」を観た。
宮沢りえ主演の「紙の月」は銀行員の横領事件を扱い、菅野美穂主演の「パーマネント野ばら」は漁村の美容院を舞台にと、それぞれテーマは異なる。私にとってはそれらの作品は「ヴァギナをめぐる物語」に見えてしまった。ちょうどナオミ・ウルフ『ヴァギナ』を読んでいたことが影響している。

「紙の月」でぎくりとしたのは以下のエピソードだった。

専業主婦だった梅澤梨花(宮沢りえ)は契約社員として銀行で働き始めた。夫婦間は表立っては冷めては見えない。ただ、長年の結婚生活に“ありがち”な倦怠のもたらす深刻なすれ違いが描写される。

梨花は初めての給与で夫と自分にペアの日本製の腕時計を買う。彼女にとっては安い買い物ではなかった。夫は「ありがとう」よりも先に「自分のために買いなよ」と梨花を諭し、「カジュアルな時計だから、ゴルフをするときにでもつける」と朗らかに言う。

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また後日、夫は海外出張でカルティエの腕時計を土産に買い、梨花に「そろそろ君もこういうグレードの時計をつけたほうがいいんじゃないか」と微笑みながら渡す。

夫は「気心の知れた間柄」を親密さと思っており、「妻はいて当然」な存在だ。梨花はそこに明確に言葉にしようのない虚しさと埋められない寂しさをはっきりと覚えている。だから、せめてと同じ時を刻む腕時計を選んだのだった。

だが夫にはただの腕時計でしかなかった。そのうえ「グレード」という「ありうべき妻」を悪気なく押し付ける。映画の中で、夫婦は慈しみの言葉をかけあうこともなければ、手を握ることもない。おそらくはセックスレスであるという描写がなされる。

ひょんなことから梨花は若い恋人を得て、横領した金で豪遊し、快楽を貪る。やはり年若い男も悪意なく彼女の振り絞った優しさをあてにしても、彼女を見はしない。セックスはしても、彼女の体にこもった寂しさという決して絶叫にはならない声が聞こえない。耳に届かない。

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「パーマネント野ばら」は特定のエピソードを持ち出すまでもなく、全体が傷ついた女たちの物語だ。
離婚したなおこ(菅野美穂)は娘を連れて、母の経営する美容院に身を寄せている。美容院は町の女たちのたまり場で、セックスにまつわる話をあけっぴろげにしている。なおこの幼馴染のみっちゃん、ともちゃんも美容院にたむろするひとりだ。それぞれヒモにたかられ、裏切られ、DVを振るわれと男には苦労している。

町に住む女たちはたったひとつのことが手に入らない。
それはただ愛されること。女たちは愛という言葉を使いはしない。信じていないふりをしている。けれども誰もがそのことに深く傷ついている。寄ると触ると猥談になるのは、女性であるとは性的な存在であるほかなく、そのことに深く傷ついてきたことの裏返しであるとも見える。

私はこれらの作品に感情移入できたのに、現実ではどうかと思うと彼らと同じことをしている。そのことに気付かされたのは、先述したようにナオミ・ウルフ『ヴァギナ』を読んでいたからだ。

この本は「ヴァギナとは何か、女性がセックスで何を本当に必要としているか」を明らかにするルポルタージュである。人によってはニューエイジめいて読めるだろうが、私にとっては退っ引きならないところに押しやる、痛棒を加える書だ。

だから改めて考えた。どうして自分は「紙の月」や「パーマネント野ばら」の男たちのように、目の前にいる女性を見ないままに、のうのうと生きてこられたのか。それでいて慰めやいたわりを一方的に得られると脳天気にも思っていられたのか。

ヴァギナとセックスに関する探求がなぜに「目の前にいる女性を見ないでいられるのか?」といった問いにつながったかというと、映画同様、この本における調査でも異性愛者の男たちはヴァギナを求めはしても、彼女を求め、欲することが何を意味するのか。求め、欲することで何が交換されるかがわかっていない。そのことが暴露されていたからだ。

この鈍さは男性性に由来するのか。それともあくまで個人の問題なのかはわからない。だが、いまの社会で男性であろうとすれば、身にまとってしまう文化がしからしめたものだと思う。

そのような文化のもたらす男たちのセックスに対し、彼女たちは不満をもっている。なぜなら「わたしたちの文化の紋切り型のセックスは目的を達すればいいだけの、体の一、二ヵ所をそそくさと簡単に刺激するだけのもの」でしかないからだ。女性たちはたんなる刺激が欲しいのではない。これはアメリカに限った話ではないだろう。

ヴァギナをセクシーに飾り、多少は自らの意志で開放的に扱えば、セックスを刺激的にするかもしれない。けれども、それは「イデオロギーにヴァギナを押し込めている」。つまりは「ヴァギナの本当の役割と多面性を自発的に無視している」ことでしかない。

ヴァギナの本当の役割とは、深いオーガズムの体験へと誘うことであり、それが彼女たちにとって「性の目覚めの瞬間」となり、「女としての自己意識が高まる」ことでもあるからだ。ナオミ・ウルフによれば、セックスはクリエイティビティと自信にかかわる重大な問題で、人生の悦びにつながる。

大袈裟に思うかもしれない。
最新の研究によればオーガズムは自律神経系の活性化を促し、それに伴うドーパミンなどの物質の放出は「解放感、恍惚感、充足感」「心に愛が満ちあふれ」るといった、世界を全肯定するようなパワフルさをもたらす。ナオミ・ウルフの取材では、多くの女性がセックスの豊かな体験の後にクリエイティビティやインスピレーションを得たと述懐する。

「性のエンパワメントを得た女性が幸福になり、希望と自信に満ちていることが生物としての仕組みにもとづいているのだとわたしたちはようやく気づいた」

だから単線的に快楽を求める男性のしかけるセックスが女性に快感を与えても、彼女たちの「不満はだんだんつのっていく」。たとえ、それによってオーガズムが得られたとしてもだ。何が受け取りを拒否しているか。そのセックスは「生きる悦び」「感情を満たす意味深いもの」ではないからだ。

セックスは「人生で接するあらゆるものと強く結びついているという感覚」をもたらす。これはヴァギナと脳のつながりがもたらすケミカルな関係で、それを知ることが「女性の体とセクシュアリティ」の理解につながる。
そして自律神経の活性化には安心して身を任せられる心身の状況が欠かせない。それがいたわりであり優しい言葉かけであり、「女性が人生で求めていることにどんなときも気を配るべきだということだ」という配慮であり、何よりあなたを見つめることである。

ようは、「いま・ここ」にいるあなたへの全身での関わり、という至極当たり前のことだ。ナオミ・ウルフによると、これがたいていの男性にはできないという。少なくとも私はできていなかった。

私が過去を恥ずかしく思うとしても、関わった人を恥じ入らせるつもりはない。ただ省みれば、長らく私にとって目の前の人への関心とは、その人を通して得られるものー快楽やいたわりや自分だけに提供されるであろう理解ーへの期待が大いにあった。その人ではない空想の出来事だった。私が行ってきたセックスは自身と深く関わることのない「性行動」だったのではないかと思う。

性行動は性欲という本能に基づく衝動がもたらす、という説明がよくされる。だが冷静に自身を見ていくと、突発的と思っている衝動は実は充分に学習され、馴染んだ情動の発露だ。私たちが「本能」と呼んでしなだれかかるものの大抵は、慣習化された情動で本能そのものと関係ない。

関係ないのだが、ひどく単線的に向かう行動の粗暴さが当の男性自身にとっても本能めいて見えてしまう。「攻撃性と性欲をつかさどる脳の領域が近いところにある」という説明は妥当なのかもしれない。しかし、男性は本能の否応なしの力を攻撃性として断片的に学んでいるのではないか、と私は思う。とくに近年はポルノによって。

ポルノでセックスを学んでいると聞くと、「現実とバーチャルの区別がつかない」といった陳腐な批判に扱われがちであるものの、果たしてそうか。たとえば言語や貨幣はバーチャルだが、私たちはそれらと現実の区分がついていない。というより互いが照応しあっており、区分などつかなくなっている。

男性向けポルノで見られる、ペニスをヴァギナに差し入れることを刺激的かつ執拗に描くメディアが意味するのは、それを快感とするリアクションが男性に期待されていることだ。
仮構の行為を「あれがセックスなのだ」と思えるのは、男性の想像の具象化だという合意が行われているからだ。そして男性たちはメディアの中の行為をセックスだとみなしてきた。それはバーチャルを現実として学習することにほかならない。

男性はポルノに見たいものを見て取る。見るとは特定の見方を学ぶことである。刺激に富んだものは次々に現れても、新しいものをそこに見ることはない。このサイクルに破綻はない。しかし、そこから排除されているのは、セックスに欠かせないはずの互いの体の関わりだ。

特にインターネット上に散乱するポルノには、セックスにいたるまでの眼差しや心づかい、誘う言葉もなく、あたかも逆上しているかのように腰を振り、物理的にオーガズムにいたらせることに血道をあげる。そのように「性欲と攻撃性」がわかちがたく感じられてしまうとき、確実に「新しいテクノロジーにいいように食いものにされている」。

快楽を与えること、快感を相手から引きずり出すこと。そこに私の体への注目もいたわりもない。私の体に目が向かないものが、どうして他者の体に注目できるだろうか。

ただいたわり、やさしい言葉と愛撫を望む。それは女性も男性も同じだろう。しかしどうして男たちにはそれができないのか。私に関していうならば、素手素面で相手と向き合うことを恐れていた。女性は概念越しの存在で、快楽は追求したり繰り返したりできるような観念でしかなかった。私は女性の体を、ヴァギナを知らなかったのだ。

「パーマネント野ばら」でなおこは高校教師と付き合っている。唯一彼女の寂しさを癒してくれそうな男性だ。だが、本当はその男性はとっくに死んでいる。なおこの周囲の女たちは彼女が付き合っているという相手は幻覚だとわかっている。だが誰も幻覚だと否定しない。

なおこは「わたし、狂ってる?」とみっちゃんに聞くと、「そんなんやったら、この街の女は、みんな狂うちゅう」と彼女は返す。女たちは男たちの寸法に合わせた女を演じてきた。そうすれば愛が得られると思っていた。
しかし手に入らなかった。他人の夢想を生きるといった、じゅうぶん狂った生き方をいままでしてきたのだ。もう好き勝手に生きさせてもらう。幻覚だろうがなんだろうが。

現実よりも幻覚を生きているのは男のほうなのではないか。「パーマネント野ばら」では、なおこの義父にこう言わせている。

「男の人生は深夜のスナックや。夜中の2時にスナックにハシゴする男の気持ちがわかるか?俺という男はここで終わりにするわけにはいかんのや」

「男の生きざま」とは、こうした箸にも棒にもかからない通俗さの変調に過ぎないのではないか。

ナオミ・ウルフはこう述べる。
「愛、セックス、親密さを女性は真剣に考える」なぜなら「わたしたちに超越的な経験をさせる自然の力が女性を事実に向き合わせるからだ」。

愛は観念でもイデオロギーでもないのかもしれない。狂った世界から現実に降り立つには、自分は何を見ているのかを見る必要があるようだ。
だからポルノを見るのをもう止めた。

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3 Responses

  1. 匿名 より:

     具体的に何なのか分からないのですが,私にとってとても大事な問題を提起してもらったような気がします。

     私は,私の見たいものの見たい姿を見ているだけで,現実のありのままの姿を見ていない,と言われているように感じました。特に女性に対して。

     ナオミ・ウルフの『ヴァギナ』を読んでみようと思います。

  2. 尹雄大 より:

    ありがとうございます。私もぜんぜん見えていないのですが、ようやく見えていないことだけはわかってきました。

  3. 匿名、女性 より:

    この記事のことを伝え聞き、導かれるように感じています。『紙の月』の主人公の抱える孤独と、自分自身でさえ止められない疾走には「わかる…」と鋭い痛みを覚え、『パーマネント野ばら』は「まさに私たち女を描いてくれた…」と晴れ晴れとした涙にくれました。『ヴァギナ』は女性の立場から女性の「あるがまま」を追求しており、これまで私も感じてきた「女性として扱われることへの違和感」の正体が謎解きされていくようで、痛快な、また痛恨の作品でした。女性という身体=心と向きあえるきっかけとなりました。身体は自分の生存機能を果たすだけではなく、世界を知り理解するための器官ではないかと感じています。「もうポルノは見ない」、の記事を書いてくださったこと、ありがとうございました。

     

     

     

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