ミャーク紀行 vol.1

雑報 星の航海術

沖縄は宮古島で4月末から1ヶ月近く暮らした。自動車免許の合宿のためだ。
19歳のとき神戸で免許を取ったものの21歳のとき、100キロオーバーのスピード違反により失効。その後、住んだ東京では車は必要なく、3.11後に移住した先の博多も、いまのような都心であればなんの問題もなく暮らせる。ただ、今年あたりまた移住を考えているので思い切って免許を取ることにした。

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沖縄を選んだのは、「免許を取りやすい」という噂を聞いたからだ。那覇は昨年何度か仕事で行ったし、どうせなら足を延ばして宮古島にしようといった安易な理由だ。宮古島に関する知識は雪塩くらいのものだった。

ちょっとしたバカンス気分でやって来たものの、もとが温室の坊ちゃん育ちなもので、共同生活などしたことがない。あらかじ個室をあてがわれると確認しての宮古行きだったわけだが、ぬかったのはトイレも風呂もキッチンも共同ということだった。

寮に足を踏み入れた途端、東京に初めて来た頃、物件探しで東武東上線沿線の安アパートを見た際のめちゃくちゃブルーになった気分を思い出した。床でひからびたイモリの死骸を踏んづけて、もう帰りたくなった。

同居人はふたりいるらしく、「仲良くしてくださいね」と職員のお兄さんに言われたものの姿は見当たらず。その日の夕飯は地元の食堂でとろうと思ったが、ガラス張りなのに中が見えない構えを見て入る意気地を失い、モスバーガーで済まして早く寝た。

翌日から始まった講習で最初にあたった教官は数週間後に「あら、あんた免許もっていたの?」と尋ねてきたので、おそらく初日にはそのことを知らなかったはずなのだが、車に乗り込むとまず場内を走らせた上、「はい、坂道発進」「はい、S字クランク」と指示するのだった。24年ぶりの車の運転ではあったけれど、なんとかこなすことができた。

その夜、いつのまにか寮内に姿を現した東京と長野から来た同居人たちにその旨を話してみる。「教える人によってやり方がぜんぜん違うんですよ!」と我が意を得たりといった様子で答えた。

彼らは僕よりも数週間前から教習を受けており、多少の不平を抱えているようだった。ひとりはマニュアル志望だったが、あまり技能が向上せず、中途から学校の勧めもあってオートマ限定に変えた。ふたりとも技能向上に欠かせない指導が的確ではないと感じている節があった。つまり、自分にあったサービスが行われていないというわけだ。

ふたりのリアクションはいまの暮らしでは当然だと思ったけれど、あらゆるところに石敢當を目にし、青すぎる空の色と潮の香りを含んだ風を感じるにつけ、その当然さをここに持ち込むことが果たしてどこまで妥当なのかなと思いつつ話を聞いていた。
初日でいきなり試すようなことをしてきたことに面食らったけれど、僕はそのことに不満を覚えたわけではなかった。それは運転経験があったしクリアーできたからではなく、それはそれとして受け止める以外にしょうがないと思ったからだ。

比較してもぜんぜん妥当じゃないなと翌日になって改めて思ったのは、初日の講習の終わりにあたり「明日は何時からですか?」と聞いたら「10時から技能教習、やりましょうね」と職員のお兄さんは答えてくれたのだが、翌日から暦通りゴールデンウイークに入ったようで、職員は誰も来なかったからだ。

僕は「明日」のつもりで聞いたけれど、担当のお兄さんは「次回」のつもりで答えたようだ。そもそもゴールデンウイークは休みだと聞いてなかった。おかげでそれから4日間は毎日海へ行って、その美しさを堪能できたからよかったけれど。

自動車学校ではカリキュラムは全国一律に定まっているし、この学校にしたって特殊な運転方法を教えているわけでもないけれど、個人のキャラが立っているのは確かだった。

それに学校の色もそれなりにあって、週末になると受付のカウンターに教習所内で揚げた、けっこうな量の魚のてんぷらが出される。最初はなんだと思ったらおやつだった。車の運転と魚のてんぷらとか学校が終わる時間になると一斉に職員が帰宅するとか、いろいろとそういう現物をもって内地とは違うんだと知らされるにつれ、内地の暮らしのあり方とこちらを比べても仕方ないなと思うし、同じような対応を望むならわざわざ宮古に来る必要もなかった。

最初は「こっちの人はのんびりしている」と思っていたけれど、その片付け方は10日も過ぎると違うんじゃないかと思うようになった。きっかけは見る人、出会う人の顔が沖縄本島とも違ってとにかく濃い。だから「ほんと、濃いなぁ」と独りごちていたのだけど、ある瞬間、「あ、宮古の人が濃いんじゃなくて、僕の顔が薄いんだ。ここでは僕がマイノリティなんだ」と気づいたからだ。比較する軸をずっと同じところに置いていても仕方ないなと、環境に知らされた感じだ。