わかりさうなすがたのひと

こちらをむいてくるひとは
なんとなくなつかしさうなひと
わかりさうなすがたのひと
だんだんまぢかくなると
まるつきりみもしらぬひと
ぼくはそっぽをむいてすなをまく

鄭芝溶が日本語で書いたこの詩が好きだ。

これから書くことは、鄭芝溶がこの詩を書かざるをえなかった背景とはまるきり関係ない。けれども、濱口竜介監督の「ハッピーアワー」を観た直後に思い出したのは、この「わかりさうなすがたのひと」という詩句だった。

30代になってから出会い仲良くなった神戸在住の4人の女性、あかり、桜子、芙美、純。彼女らは休日の予定を合わせて手づくりの弁当を持ち合い摩耶山でピクニックをしたり、重心を探るワークショップに連れ立ち、また有馬温泉に一泊旅行で出かけるなど、大人になった今だからこそ出会えた仲間だと互いに思っている。

4人はそれぞれ離婚歴があったり専業主婦だったり、はたまた仕事に懸命だったりと、自分の暮らしを振り返るとそれなりに思うところはあったとしても、それは生きていればどうしても出てきてしまうようなことでしかない。服を着ていれば袖口がほつれてくるが、だからといって服を着なくなるわけではないように、抜本的な解決などないようなやり繰りの中で暮らしている。そうして抱えている屈託を話したとしても、彼女らには共通言語があると思えた。純が離婚裁判をしていると知るまでは。

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それなりの手応えあった4人の暮らしは、純が明らかにしてこなかった葛藤を知ることで次第に不穏になり始める。純が離婚裁判について隠していたことが問題ではない。それをきっかけにそれぞれの内なる葛藤が親密さの関係の中で明らかになっていく。

なぜ話さなかったのか。どうして嘘をつくのか?といったような詰り方をするあかりは他人にも率直さを要求する。桜子はそういうあかりだからこそ純は口をつぐんだのではないかと、正直さを武器にすることの野蛮さを指摘する。

「私はきっとあかりには大事なことは言わへん。言うたかて自分の物差しで人のこと測るだけやん」

ありふれた言葉かもしれない。でも、それぞれが口には出してこなかった、これまで育ててきた信念が月並みな表現で明らかになるにつれ、不安にかられ今まであったはずの生活の手触りを確かめてみようとしても、それは剥離してボロボロと崩れていく。

夫は妻を大事にしているという。
「大事にしてるよ。ただ、毎日愛してるとか花買って帰るとかそういうんやない。家の外は俺、家の中は桜子。2人で大事にしてる感じかな」

そうして見知ったはずの夫はまるきり見知らぬ人に見えてくる。

4人とも崩壊の予感を抱いていたのだということが練られたセリフの隅々から感じられる。詰めて言えば5時間17分の作品は、そのことをひたすら描き続ける。

幸せな時間が派手な音を立てて崩壊していくわけではない。大きな事件は起きないが、でも本当は特別な、一回きりの事件が毎日起きていた。それは私たちの日々も同様で、この何気ない暮らしがかろうじて軋みを立てるだけのことでいつも済んでいたのだと、すべてダメになってから知る。

擦り傷くらいのことに思えた。でも、それが息を苦しくさせ、私を殺すのだと彼女たちは知ってしまった。

40歳も過ぎると「人生というのは、いろいろあるがこうでしかないものかもしれない」と言う人は増える。達観ではない。苦味は感じつつ、それはそれとして傍に置いておかないと、あまりに「本当のこと」を探求しては生きづらくなる。だから知恵として言うのだろう。
けれども「それはそれとして」はきっと無邪気に彼女を傷つけていく。

解像度を上げると生きること全体の精度が落ちる。精度を上げると解像度が低くなり、彼女たちの心の襞は些事に見えてしまう。夫たちがそうであったように。

私はこの映画に出てくる凡庸で悪意がないからこそ始末に負えない夫たちの馬脚を全部揃えたような人間だと思う。あの映画の中で彼女たちに去られた後の身にしみない表情を自分もしているのだろう。
死がひとつのゴールだとして、せめて馬脚よりも先に鼻面がゴールを切るようにしなくては。

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