20120310@3331 坂口恭平トークセッション「空間を浮浪する」レポート

「空間を浮浪する〜新政府は交易を目指す」と題した坂口恭平さんとのトークセッションを3月10日、千代田区のアートスペース3331で開催しました。

建てない建築家であり、コンテンポラリーアーティストであり、作家であり、そして新政府初代内閣総理大臣である坂口さんを招き、新政府の施政方針について大いに語ってもらおうじゃないか。そう目論んでの企画でした。

そもそも、このイベントをやろうと考えたのは昨夏、横浜で行われた坂口さんとChim↑Pomが出演したイベントに参加し、「もっと突っ込んだ内容が聞きたい。それもとびっきり抽象的で具体的な話を!」と思ったからです。
自分が聞きたいことがあるのなら、他人任せにしていいわけがない。名乗りをあげてやるべきだ!と思っての発案でした。

ep20120310_01当時、まだ坂口さんの提唱した新政府構想については、“新政府(笑)” と(笑)の符牒をつけて話されているようなところがあって、それは現実へのわかりやすい抵抗ではないことの印みたいな役割があったと思うけれど、僕はパフォーマンスとマジさ加減の間隙を縫うようなデザインのされ方(新政府という語感を含め)が本当にヤバいところだと感じたので、新政府という語の響きがもつ意味合いに手を突っ込んで、グンッと広げたとき、(そう、ジミ・ヘンドリクスが「ヴードゥー・チャイル」で“そうさ、オレは山のすぐそばに立って 雑作もなくそいつをなぎ倒すんだ そうさ、散らばっちまったそいつらを拾い上げて島をつくるんだ”と歌ったような按配で)、何がそこから出て来るんだろうと、ワクワクする心持ちになったわけです。

そこで僕らが生きている、いわゆる現実社会で馴染み深い「政策」という語を媒介としたとき、新政府がこの地に展開しようとする空間は、どのように描き出されるのか。新政府の“新”の骨頂が見て取れるんじゃないか。そう考え、施政方針演説という大上段に構えたテーマを掲げたわけです。

ところで、僕はこれまでに坂口さんに何度かインタビューしていますが、とりわけ記憶に鮮やかなのは、彼が「最も関心があるのは、be here nowだ」と言ったことです。  いまここに在るということについて。“ここ”という、“この空間とは何か?”が最大の関心事だというのです。

だからでしょうか。やはり施政方針演説は、坂口首相(以下、首相と呼ぶことにします)の「この空間」をめぐる話から始まりました。

首相はまずこう切り出しました。

「小学校へ行く途中に酒屋があって、裏の空き瓶を置いた場所は、空き瓶置きのコーナーではなく見えた。ケースの高さが屋根っぽくもあり、建物みたいに見えたので、建物として使い出した」

しかし、その話は「母ちゃんに話しても通じなかった」。なぜなら「酒屋の裏はあくまで空き瓶置き場」に過ぎないからで、しかも「だから入ってはいけない」と言われた。

酒屋の裏が手招きし、そこに近づき身を入れた瞬間、紛れもなくそこは自分の身体を包む建物として成立してしまった。

そうした空間の膨らみに気づけないだけでなく、禁止の対象となったことが首相には不可思議に思えて仕方なかった。

見て取ったものは直に目に見える形で表れてはいないが、確かに現れてもいる空間を見出した。そのとき、<そのようなものを見出してはならない>という禁止のメッセージを受け取ったこの体験は象徴的で、その後に形を変えて、この社会を生きる通奏低音として響いているさまを首相は知っていきます。

たとえば、電気は100Vが当然であり、水は蛇口をひねって飲むものであり、お金は会社に勤めて得るもの。そして家はつくって住まうのではなく買うものである。しかも一生かけて代金を払うような生命と交換するようなもの。それを疑うことなくやっていくのが社会的な生活と呼ばれるわけです。

ep20120310_02首相は廃棄されたバッテリーやソーラパネルを使えば電力は12Vで十分ではないかと言います。
これは地球に優しく暮らすため、「電気をどれだけ使わないか」といったエコロジーの発想ではなく、そもそも自分が生きていくのにどれだけの電気が必要かすら知らない。だから行ってみた結果で得た知識で、主義主張から導きだされた結論ではない。  つまり自分が生きて活動する空間について考えることを止めなかった末に得た独自の知見です。

考えないままに生きてしまえる「システム」をよくよく見てみる。これは微細なものを見るのではなく、微細に見るのであって、首相の言葉を使えば「解像度を上げて見る」。しかも見なくてはいけないのではなく、微細に見たほうがおもしろい。
少なくとも身振り手振りを交え、解像度について話す首相のグルーヴを感じるにつけ、問答無用にそう思わされます。

実際、解像度を上げた途端、路上生活者といわれ、社会から逸脱したと思われている人々の営みがまるで違って見えて来る様子が話から伝わって来ます。

捨てられた金や銀、プラチナのリングを拾って月収60万を稼ぎ、ホテル暮らしをする自称“路上生活者”。50円で買える自販機の在り処を知っていて、だからこそ大量に買うのではなく、「必要な分だけをいただく」微細な感覚で行動している人。
都市の幸へのハッキングが淡くアンビバレントな微妙な感覚を伴って行われている。社会の中でそういう微細な業を成立させている人たちがいる。
彼らには都市の幸を風や陽光と同じく天与のものとして捉える眼差しがあり、その贈与が行われる関係性からはみ出ない限り、生きていけるという確信があるのではないか。

少なくとも「働かないと死んでしまう」と強迫的に思い込んだ、あるいは思い込まされた上で営まれる「現実」とはまるで異なる空間がそこにはあります。
しかし、そこは彼岸でも別世界でもなく、be here now—いま・ここに同期、かつ同起している。
そうであるならば、それを見出すことを妨げているのは何か?他でもない僕ら自身です。
眠り込んだ意識のままにつくり上げたのが、首相曰く「匿名化された社会レイヤー」です。
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「“こういうものの中で生きているんだ”と決めちゃっている。そうじゃない自分はいるかもしれないけれど、いないことにしましょう。それを認めると苦しいらしい。オレが見る限り、認めたほうが苦しくないんだけど。そういうふうにしてなんとなく知らないあいだに自分がおかしいと思うことは、確実に見てみぬふりをする。そういうふうにできているのがいまの都市のインフラでしょう。それはそのまま原発につながります」

世界は平面的に一律的に存在しているのではない。システムに馴染んだ眼差しが起伏だらけのこの豊潤な世界を平坦にしている。

僕らの見ている現実が実は幾層、というか立体的なマーブル模様に入り組んでいて、同じ時を生きながら、それぞれの世界をそれぞれが生きている。
人の見ている、感じている数だけ世界がある。先人たちを見るかぎり、この事実に気づいたとしても言語では到底説明できないことがわかります。

そこで新政府は住民である人々に告げます。だからこそ実践せよと。首相は南方熊楠の描いた南方マンダラ図を引き合いに「わけのわからない球体があったとしたら、バシッとカットする。その切断面を見せる」

球体とは、自分が確かに実感していることであり、その存在の濃度を全身で感じていても言語が追いつかないもの。おぼろげでありながらも確実に感じる空間と言い換えてもいいでしょう。
それは客観的に記述できるような空間ではない。僕やあなたが現にこうして生きていることと分けられないものであり、つまりは日々をやり繰りしつつ生きる行為にただちに結びつく。

経済の語源となったオイコス・ノモスは、まさに日々のやり繰りを意味した。

日々の経済が行われる場。当然ながらそこにはいろんなものやことが出入りをする。ときに言葉が、お金が出入りする。つまりコミュニケーションが行われる。それを首相は交易と名付け、匿名ではなく有名の行為がその場で成されるべきであると言います。

有名とは、世の中から褒めそやされたり評価されるといったことではなく、名分が有る。つまり成すべきを成す。そういう意味に僕は解しています。首相はそれをタレントと呼ぶ。成すべきを成す能力とでも言いましょうか。

古代ギリシアでは金や銀の重量の単位をタラントンといい、そこからタレント(才能)という語が生まれたといいます。タレントによって交易が行われるとはどういうことか?

新政府の構想では、全国に広がる耕休地を所有することなく、利用する権利の共有をはかります。そして、その土地に油を精製する菜の花を植えるエネルギー政策と「マンゴー、バナナに蜜柑に栗、なんでもかんでも植えます」という食料政策により、僕らの慣れ親しんだ、あの「稼がなければ死ぬ」ことで人生を捉える座標の放逐を謳う。

首相は言います。「稼ぐ必要がなくなったとき、初めてミッションが生まれる」。

タレント=才能とは、身につけるものではなく、備わっているものを指すのではないか。そう思うのです。
酒屋の裏が「酒屋の裏」然としたものではなく、なぜか「建物」として、住まう、生きるとつながっている空間に見えたような、そんな眼差しを生み出したものを才能と言うのだとすれば、人の数だけ世界の見え方が違うのが事実なのだから、見え方、感じ方の違いがすでにしてタレントの存在を証し立てているとも言えます。

すでに有名性をもつ自分が動くことはタレントの流動です。固有で有名のタレントある自分と他者との出会いが交換(交感)行為であるならば、交換が行われる限り、つまり人に会う、話す、触れる、こうした運動が続く限り、人は死ぬことはない。
交換が続く限り生きる。あなたがすでに固有の何かである限り、あなたは死ぬことはない。生き続ける。それが言葉をもってコミュニケーションという交換を始めてしまった人間の性であり定めなのだから。

「“カントリーロード この道ずっと行けば あの街に続いている気がする”。オレはあの街に行きたいんですよ。行きたいのはそこ。だってそれはあの酒屋の裏で体験していますから。あのとき絶対にあの世界をオレは見ている。それを高解像度でやりたい。そうやって空間をつくろう」

あの街、あの世界とは? それは僕らが存在しているだけで飽満充実して生きられる世界。

その世界は既存の用意された知識からは見えない。だから首相はこう言います。「自分の感覚」を信じろと。

「思想なんか持つな。思考し続けろ。それは点でいい。点の思考と点の思考で人が行動して点を結び始める」

さらにこう続けます。
「妄想と実行、夢と現実を全部同居させますから。お金とハグも同居させます」

坂口首相の演説前の挨拶で、僕は「強度のある妄想は現実を構成する」と言ったけれど、訂正しなくてはいけません。構成ではなく生成であると。

生成とはいまここで行われます。それはそのつど橋を架けるにも似た行為。
渡るべき新しい橋はまだ架けられていない。しかし、それは予め夢の中で約束された橋でもあるような。そして、僕らはいつか川を渡るのだ。
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撮影:渡辺孝徳