プリセッションジャーナル

プリセッションとは、ときに計画的偶然性とも訳される。
それは蜜を求めるハチによって受粉が行われるような、意図せざるところで起る幸い。
計画されたかのような偶発的な出来事をいう。

20世紀の偉大な発明家であり思想家、建築家、詩人、何者かであり、また何者でもなかったバックミンスター・フラーによれば、プリセッションのもたらす角度は90度なのだという。
ちょうど水面に石を落とすと、 引力に対して90度の角度で水面に波紋が広がるようなもの。

プリセッションについて知ったとき、僕は禅の公案にある「壁の前に立ち一歩進め」を想った。壁を自己に立ちふさがる障壁にした途端、一歩も進めなくなる。
だが、右あるいは左に転進すればやすやすと一歩は生まれる。「進む」という目的に己を奪われると、たった一歩も覚束ない。

フラーや公案の本来の意図するところとは別に、僕は行き方はわからないが、進むべきところに向かおうとする際に言われる「急がばまわれ」について考え、その回頭の角度についてこう思った。
かたくなに思い込んだ進路とはまるで異なる、思いも寄らなかった彼方を目指すとき、新しい現実に一歩を踏み出せるのではないか。

最短、最速で目的地に向かおうとするなら、歩むべきは思いも寄らぬ角度である。そこに約束された未踏の地はあるはずだと。
ハチは蜜を求め、花びらに身を差しいれる。そのときハチの主目的とは異なる出来事が花との計画的偶然性の邂逅の中、相互作用によって生じ、豊かな実りがこの世界にもたらされる。

人と人との出会いもまた同じだと想う。
予測できなかった者同士の巡り合わせは意図せざる何かを生み出す。
このコーナーでは、世界の実りとにぎわいについて考察している人、実践している人との語りを通じ、見たことのない景色を現出させたい。語られた言葉がプリセッションをもたらすものであればと思う。

道元はこう言った。「愛語ヨク回天ノ力アルヲ学スベキナリ」。
語ることを愛するとは、この世界について包括的に語るような態度を指すだろう。

たったひとりの身幅分しかない小さな狭い言葉を見慣れたやり口で述べるのではなく、視野の外に広がる光景について語りたい。

さあ、はからずも舞い降りる幸いに身を乗り出そう。

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