祭りのあと

自叙帖 100%コークス

学内での抗議集会、というには肉を焼くというふざけたイベントの模様が案に相違し、新聞で大まじめに報道されたことにより、「newsweek」が取材に来たりとか思わぬ反響が方々であった。

くだらないイベントの最大の収穫は、学長声明を引っ張り出したことだ。

朝日新聞の「声欄」に、受験を控えた高校生が「関西学院大学を受験しようと思っていたが、大学の対応に失望した。志望先を変えようと思う」との投稿が掲載された数日後、学長声明が発表された。「遺憾に思う」レベルではあったし、あくまで外聞を憚ったとはいえ、学内で起きていることを認識させ、リアクションを引きだしたという点で、まあ良しとすることにした。

僕がいちばん良かったと思えたのは、あまり顔を出していなかった倫理学特殊講義に顔を覗かせたらば、講師が「新聞を読んだよ。おもしろいねぇ」と声をかけてくれ、その覚えのめでたさに、単位取得が成った手応えを感じたことだ。

さて、記事になって以降、脅迫電話はパタリとかかってこなくなったが、おもしろかったのは、そのかわり電話に雑音が混じり始めたことだ。
左から右まで活動家と言われる人にメディアに出ると「そういうこと」が起きると聞いていたが、本当にそのままのことが起きたので関心した。
いまのようなデジタル回線ならそんなわかりやすい現象が起きないのかもしれないが、それにしても公安も仕事とはいえ脱力したことだろう。盗聴したところで、当時の僕が主にやり取りしていたのは、痴話喧嘩だったのだから。そのせいか雑音は一週間くらいでなくなった。

世の中はあんがいわかりやすいものだなと感じたことには、もうひとつあった。メディアに取り上げられたことで、こんな学生風情にも講演とかパネルディスカッション参加の依頼が舞い込み始めたのだ。内心おかしく感じたけれど、何事も経験だと思い、ひとつふたつは受けてみることにした。

民間や行政からの依頼は、大別すれば人権団体系と多文化共生系にわけることができた。みなそれぞれまじめで、そのまじめさに呼応するような内容を僕に期待したのだろうけれど、ことごとく裏切るはめになってしまった。

まずは人権団体主催の会で「差別は自然現象」と発言し、ひどく怒られた。

むろん、これは「強いものが勝ち、弱いものは負ける」のが自然の掟だから、「差別されても仕方ない」といった、超アタマの悪いことを言いたかったわけではない。

自然界は弱肉強食だ→自然の一部である人間も同じだ→だから強者が弱者を支配するのは当然だ、と複雑で流動している世界を見据えるのが怖いから、短絡することで自分を守ることに勤しむ、マチスモぶった臆病な人はそういうふうに言う。

弱肉強食。これは何もライオンがいつもひとり勝ちするような定位置にいることを指していない。ライオンもハイエナに食べられる時が来る。

弱肉強食とは、食べる・食べられるという相対的な関係をただ表しているに過ぎない。
食べる・食べられるという関係は厳然とあるけれど、変転し続ける世界の中で自己をその関係のどちらか一方に常に置くことはできない。誰も定位に存在することはできない。生きるとは変化することだからだ。

ライオンに食べられるインパラも草を食む。誰もが主体的に食べる、つまり生きようとしている。自分が食べられることを想定して、後手に回って生きているのではなく、「ただ生きる」。この一点で主体的に生きている。

しかし、思わぬところで横合いから死が訪れ、生命が突如断たれる。それも他でもない私が。
誰ともこの取り替えの聞かない運命の一撃という絶対的な差別がある中で、それでも身を開いていく。つまり生きるということであり、そういう前提をしっかと見つめ、その上で人間としてのありようを獲得していく行程がある。そのプロセスを含めて権利、人権という概念が成り立つのではないか。そういうことが言いたかったのだ。

ついでに言えば、多文化共生系のシンポジウムでも不評を買ってしまった。「地域住民との共生」とか「多様性を認める社会づくり」といった文言を僕も口にすれば、その場に集まる人の穏当な共感を得られたのだろう。
でも、僕は「そうよね」「そうそう」に終始するような、入口と出口の光景がまるで変わらない平坦な話の成り行きに我慢ならない質なのです。
だからといって、僕の違和感の表明がシャープだったわけではなく、稚拙な噛み付きしかしなかったと思うけれど、たぶんこういうことが言いたかった。

共生にせよ多様性にせよ、異なる種が様々な階層で生き、依存しあって活動できるのは、鉛直方向に支配秩序が貫徹されているからだ。それを忘れるわけにはいかない、と。「共生や多様性が大事」をスローガンとして言うだけでは、社会を捉える視点の細密さが低すぎるのではないかと。

当時もいまも変わらないのは、唱えれば安心するような護符としての人権や共生に興味がないということで、差別や悲惨なことがあろうとも、ひるまず・とどまらず・退かないで如何にいられるか。知りたいのは、兵法にも似た呼吸であり、概念に自分の生を委ねたくはないということなのだ。