ピダハンとかき氷

雑報 星の航海術

ピダハン』を読んだ。ピダハンとは、アマゾンに住む少数民族である。以前、僕は精霊とともに生きるヤノマミについて書かれた本を読み驚愕したのだが、ピダハンはさらにそれを上回った。

まずもってピダハンには宗教がない。数らしき概念はあるが数え上げる文化がない。“おはよう”も“ありがとう”もない。名前はころころ変わる。左右を表す言葉もない。色の固有名もない。赤色は「血のような」として表される。ブリコラージュはあっても技術の練磨や伝承に関心がない。あまり所有にこだわりがない。

原発の爆発というある意味で現代文明の最先端を行く日本で暮らしている僕にとっては、彼らを理解する取っ掛かりが何もない。おもしろい本ではあるのだが、少し途方に暮れるところがないではなかった。
しかし、ピダハンが3歳で成人を迎えるという件に差し掛かり何ほどか腑に落ちて膝を打った。そこで思い出したのが、先日喫茶店の親子連れの会話だった。

僕が珈琲を飲んでいるそばで、幼い子を連れた親がやってきた。子供はかき氷を注文し、しばらくするとアイスの載ったかき氷がテーブルに置かれた。子供は嬉しそうに食べ始めた。すると父親は無心にスプーンを口に運ぶ子供に向けてこう言うのだった。

「そんなにはやく食べたら頭が痛くなるから休憩したらどうだい」。
また、しばらくすると「ほら、アイスが落ちるから、はやく食べなよ」と、それぞれ矛盾したことを言う。

そのとき内心、「なるほど」と思った。こういうふうに自分の振る舞いの流れを遮られ、順ではなく逆の言葉を差し挟まれることで、あらゆることを他人の思惑と合致するよう、意識的にとらえることを仕込まれるのだなと。

このようにして僕らは他者の目を通じて自己を対象化し、自分が自分にとってよそよそしくあるように自らを動かすことを習うのだ。そして意識は、リアルタイムに対し絶えず半返し縫いのような振り返りを仕付けられていく。

私が私らしく振る舞い、生きることが常識や標準、合理という外部にある基準を名目に排除されていくと、無意識に不全感が溜っていく。その先には、互いの理解よりも他者への憤懣を募らせる鬱積が待ち構えている。他を罰し、論理的に他を駆逐する言葉遣いを覚えていきもするだろう。そんなふうに感じた。

そこでピダハンの成人年齢3歳についてだ。おそらくピダハンの子供たちは3歳までに自己実現を終えるのだろう。時と所を選ばず欲求するあれやこれやを親は「いけません」ということなく、すべてを順として経験し、個人的な欲望については3歳までに満たし、不全感を募らせないのではないか。3歳から以降は共同体の中の役割を果たすことが生活となっていくのではないか。

僕はかき氷を食べていた子供を思い出すと、20歳も過ぎてから自己実現などと言い出した己の過去をひどく恥ずかしいものとして振り返るのだった。