尹 : 実際の映画づくりについて尋ねます。「サウダーヂ」では1年近く、甲府の街をリサーチしたそうですね。そこで見えてきた街の風景は、どういう形でストーリーに組み込まれたのでしょう?
富田 : 訪れた現場、出会った人からエピソードを拾い集め、シナリオやセリフの根幹になるものをもらうのですが、むろんそれらを羅列すればいいわけではないし、やはり構造的な視点、思考というのは重要になるでしょうね。
つまり、集めたにしても、そこからどのエピソードを選ぶのかは、「なぜこの登場人物たちがこの状況に追い込まれ、このセリフを言うのか」といった具合にチョイスされて行くわけです。視点とは、そうした選択の基準になるものだと思います。
しかし、それは初めからあるわけじゃなくて、例えばタイ人やブラジル人たちはそもそもなぜここにいるのか、そして実際の彼らの暮らしを間近に見ると、彼ら彼女らが具体的にどんな苦難に直面して生きているのかということもわかってきます。そういう発見と予想のせめぎ合いみたいなもんだと思います。
尹 : 距離が近くなり、彼ら彼女たちの言動に共感したり理解できなかったりといったことが生じる。そういう感覚的な知覚から、状況そのものを立ち位置を替えて様々に捉え直していく。それが構造的な思考を促すということですね。
富田 : そうですね。なぜ彼らはこんな状況で暮らしているのか。なんでこの人はこういう追い詰められ方をしているのかと考える。そこで生まれる考えには、当然、単に客観とは言い難い、僕らが捉える世界の構造も入り込むでしょうね。
尹 : それが現実をカットアップする際の切り口を決めるわけですから、少々の客観的な見解で揺らがないだけの作り手の思惑の強度が問われるところです。
富田 : 俺たちの曲解も主張も入るかもしれない。その試みの積み重ねが映画全体の構造になっていくんだろうと思います。
でも、俺たちにとっての映画ってそういうものです。俺たちには世界はこう見えてますけど、どうですか?ということでしょうね。
尹 : 「サウダーヂ」を見て、すごいと思ううちのひとつは練られたセリフです。その言葉が場に流れ出すときの空気感を知ることなしに、色をもたず動き出さないセリフがやり取りされていますよね。
たとえばパチンコの話をしているときに、外国人に対して排外的な考えをもつ猛(田我流)が「北鮮が!」と吐き捨てる。きわどいセリフを起点にドラマが動き出すかと思いきや、周囲の人は女性やお酒のほうに意識と関心を向けて、あっさりと流してしまう。
あれはすごくリアルだなと感じたんです。誤解や偏見、先入観の含まれた会話を耳にしても、日常の中では面と向かって問いただすことはあまりなくて、だからこそなのかもしれませんが、ボソッと呟いたり、吐き捨てたりといった何気ない日常会話として流される内容が実は差別感情を育むことにつながったりしていくわけで、そういう場の生成のされ方のほうが多いんじゃないかと思います。セリフについてはそうとう議論してつくっていくんですか?
富田 :相澤とノートを広げて互いに掛け合いみたいにして考えています。「それは言わないでしょ、さすがに」とか「それはちょっとへぼいからやめよう」といった具合に、特に変わったことをやっている訳ではないですよ。
しかし、そうやって、さあ書くぞと構えてからの作業も、俺と相澤の普段の付き合いの中から発生するものを前提としているからできる、というのはあるでしょうね。話し合っているという意識もないまま話している会話の内容が生かされていたり。
例えば、いま尹さんの言ったセリフについて言えば、強烈なセリフではあるけれど、これは言わせたいと。
しかし、それをどうやって会話の中に入れるのかは重要だし考えますよ。映画のセリフのリアルか否かみたいな話ってよくありますけど、実生活の会話の中で「北鮮が!」と誰かが言ったとして、もう一人が「何それ?」ってなったら普通に説明すると思うんですよね。だったらそれはリアルな会話になるし、実生活ではそういう会話をかなりの頻度でしてると思うんですよ。
でも、映画の中ではそういう説明は下手ということになる。いやいや説明なんだからいいんだよと、実は俺たちなんかは思ってるんです。言っちゃってもいいかなと、本当はね。実際こういう会話してますよって押し切ることがあってもいいと思う。
勿論、説明するにしたって、そこがシナリオライターの腕の見せ所にはなるわけですけど。だから今回は意図がそこになかったということです。つまり猛と精司が「北鮮」の意味を共有し合う関係である必要がなかったと。
それでいうと、井土紀州監督の「ラザロ」という連作の中の「朝日のあたる家」という作品があって、劇中、海辺で女と男が地方の郊外型ショッピングセンターについて会話するシーンがあるんです。
女の実家は大型ショッピングセンターができたことで潰れてしまった。男がそれについて、新自由主義がどうのこうのと全部セリフで説明した後、女は「じゃあアメリカが悪いん?」と言う。それを見て、「井土さん、どえらい事やるなぁ」と思ったんです。
この作品のもつテーマがそういうことであるにせよ、あのセリフはどうなんだという意見も当然あったと思います。けれど、夕焼けの海辺というロマンチックなシチュエーションで、当然意図的にやってるし、なんか新鮮だったんですよね。
で、考えてみれば、普段の会話って実はそれで成り立ってるところがあるよなって。休憩時間の職人のおっさん同士、新聞読み読み、政治について熱く議論交わしてますしね、と思って。
富田 : 実生活では散々している会話なのに、映画でそれをやっちゃうと、逆に非日常的な浮き方をしてしまう。それを「ラザロ」では敢えてロマンティックなシチュエーションの中で、日常を非日常としてやったというのが面白かったんです。
そして、この映画の登場人物達は、その日常と非日常がひっくり返った世界の中で、当たり前のように反抗に打って出る、行動を起こしていくわけです。 「ラザロ」はそこがおもしろいんですよね。
そういう意味で言うと「サウダーヂ」は誰も行動は起こさないわけです。猛の起こした行動も、本人にもなぜなのかいまいちよくわかっていない。確信が持てない中で行動こしているわけですから。
とにかく、そういうのを描きたかったんです。行動を起こす確信なんか誰ももつことなどできないし、起きてしまったことも誰のせいなのかわからないし、あらゆることが複雑に絡み合って曖昧で。
実際、現実というのはなかなか明確に捉えきることができないし、ましてやカタルシスを伴う問題の解決などそうそう訪れない。
困難さを抱えて生きている。そのこと自体のもつ複雑で曖昧で、だけど映画になんかなりそうもないし、つまらなそうな現実を、もし映画で面白く描けたら。そう思ってつくったのが「サウダーヂ」だと思っています。(Vol.4へ続く)
2012年6月1日
撮影:渡辺孝徳