尹 : 「サウダーヂ」について経済の衰退による閉塞感とか排外的な機運といった切り口で語る人は多いと思います。
実際、地方都市の衰退や消費の冷え込み、相対的貧困率の高まり、ガラパゴス化など逼塞した状況を示す語はいっぱいありますよね。
その一方でキラキラした商業施設やタワーマンションがボコボコ建設されてもいるわけで、いったい日本って貧しいんでしょうかね?
富田 : 俺もわかんないです。たとえば「日本映画が閉塞している」と言ってるわりには年間300から400本が公開されています。ひとつひとつにお金がかけられていないのは確かでしょうけれど。
まあ、ああだこうだ現状について言っても、結局は自分たちの手で触って感じられるかどうかが大事でしょうね。もわっとした雰囲気だけを相手にしていたら、閉塞感だとか簡単に言えるけれど、それは本当なのか?と問い出したら、自分にとっての実態としてどうなのかが問題になってくるわけですから。
富田 :とにかく、あまり漠然としたことばかり考えてもしょうがないんで、だからやっぱり感触のあるものに触れていくしかない。手触りのあることを自分たちがやっていく中で、それをどう捉えるか。「これが正解ですよ」と誰かに言われても本当にそうなのかわからないですし。
尹 : 映画の世界も混沌としているようですが、それでも業界に飛び込んで来ようとする、専門学校に通っているような映画制作志望の若い人たちと話す機会はありますか?
富田 :映画をつくりたいという思いがあって、それを前提に話をすることはたまにあります。でも、話が通じ合わないことが多いですよ。
尹 :なぜでしょう?
富田 :俺たちの考えている映画とは違うからでしょうね。俺たちはあからさまに商品としての映画を考えてないし、それで食っていこうともあまり考えてこなかった。
でも、それなりにこの業界でやっていこうと思う人なら、商業的な成功を考えるので、まず食っていく観点から映画に携わる方法を探るだろうし、そのほうが真っ当な考えなんでしょう。そこらへんは俺らのほうがおかしいので、だから話があまり通じ合わないんです。
尹 : でも、「わかる人さえわかればいい」という考えでもないんですよね?
富田 :勿論、一部の人に向けてという縮こまり方はしたくないんです。観客を安易に想定してしまうのは本当に良くない。
とにかくわからないところに向けて何かを発しているということです。俺らにとって映画をつくるとは、ボールを放り投げてみて、世界の感触を確かめるような行為で、だから最初からビジネスとして成り立たせようとか食っていく算段からどういうふうにつくっていくかを考える人とは興味が重ならないから話が続かない。そうなると「好きにやればいいじゃん」としか言いようがないんです。
もちろん劇場で公開される以上、すべては商業映画ですが、俺たちは制作も宣伝も、とにかく採算度外視でやってきました。これまでも今後もどうやってつくり続けるかに関する考えは、その人たちにとって参考にならないでしょう。こういうやり方でしかつくり得ず、観客に届けることができない映画がある。そう思ったからこそ、現在に至る空族の方法でずっとやってきたわけですから。
富田 :とにかく空族が映画において何かをやったとするならば、それは端的にいうと、採算度外視だということじゃないでしょうか。なので「空族のやり方が正解です」なんていうつもりは、まったくないですよ。
そもそも映画には答えなんかなくて、しかし「自分たちにとっての映画はこういうことだ」と考えるのは重要だし、そういう自問自答があって、今の空族の映画づくりの体制ができてきたわけです。
かといって、今後それを継続できるかどうかはまったくの未知数ですし。もし継続できたとしても、それは金には結びつかないと思いますよ。となると、意地とか反抗とか、そういうことがないとね(笑)。続かないです。
本当に、今という時代は各々がそれぞれの方法を見つけてやるしかないのだと思います。
尹 : 「これまでのやり方はダメだ」という掛け声と音頭はあちこちで響いています。でも、これから先のことがあまりに不確定だから行動は起こさない。そうなると不満と鬱積だけが募っていく。そんな気配を感じます。
これまでのやり方が通用しないなら、新しい試みをやってみるしかなくて、その試みが成功するかどうか。あるいは試みの意味するところは、今はわからない。なぜなら「これまで」とは違うことを行おうとしているのだから。そのことだけは唯一はっきりしていることです。だけど腰が引けてしまう。
富田 : すべて金に直結する話ですからね。映画の製作費の大小の差は、以前と比べるとかなりの幅ができました。しかし、いずれにせよ金と人が少なからず必要となる、それは変えられない。なので、金が世の中にまわっている時は内容だってチャレンジできる。でも、金が世に回らなくなると、映画をつくるにしたって、内容よりも、興行収入という最大の目的の一点に、関わる人々の意識が集まりやすくなる。当然ですよね。
要するに、俺たちが『国道20号線』をつくった頃、「つくられる映画の内容の幅があまりに狭すぎる」という思いをもっていたんですよね。映画ってこんなに貧しいものではないだろうと。
最近、いろんな人から聞かれるのは「『サウダーヂ』にお客さんが入った成功の秘訣はなんですか」「どうやって宣伝をやったんですか」といったことで、本当に簡単に聞いてくるんですよ。こういう方法をやったら客がどんどん来る。そんな方法なんてあるわけない。わかっていたら誰もがやるでしょう?
「国道20号線」の最初の公開の時、お客さんは本当に少なかったんですよ?その後の月例上映会なんかも含め、長年やってきた活動込みで今の形になったわけで、「これが秘訣です」なんて人に話せるものなんかない。
もしも言えるとしたら、採算を度外視して丁寧にやったということだけ。つまり答えを聞きたいと思っている人の想像の外でやっている。それを伝えないといけないかなと思っています。
「簡単に答えが聞けると思っているということは、採算の範囲内でしかものを考えてない」わけでしょと。でも、狭い範囲の価値観の外を見ないことには、何も変わらないですよ、今は特に。
だから「今後の展望は?」という質問には「革命です」と答えています(笑)。答えを聞きたがる人たちのペースで話していても、対話ではなく、答え合わせになってしまいますから。
尹 : 正解がどこかにあって、それと照らし合わせれば安全なんだ。この考え自体が幻想なんですが。でも、嘘でもいいから安心が欲しいという不安な心持ちはわかります。
富田 : 田我流も言ってましたが「俺の話を聞いてください」って近づいて来る人が多いと。「なんで俺が初対面のおまえの悩み話を聞かないといけないんだよ」と言ってましたけれど、確かにそうですよね。
俺たちが登壇したトークショーでも質疑応答になったとき、自分のことを話し出す人はけっこう多いです。
尹 : 「サウダーヂ」に触発され、自分の置かれている生活の状況なんかを話すんですか?
富田 : そうです。そういう話は聞きたいのでそれでいいのですが、それで終わっちゃうことも多くて。
尹 : なんか不安な気持ちを突かれる映画ではありますよね。
富田 : ただ、自分のことを言いっぱなしで目の前の他人に興味がないままに終わるのはもったいない気がします。
以前、横浜での上映会のとき、「サインください」と言ってきた観客の方がいました。差し出された紙を見たら、白いハガキみたいな紙の真ん中に赤い丸が描いてあって、「ああ日本の国旗を模したハガキか」と思っていたら、その人は「富田監督にとって愛国心ってなんですか?」と尋ねてきた。
ちょっとの間、答えあぐねていると彼は無言で立ち去りました。俺は色々話してみたかったんです。でも、こちらが、向こうの期待する反応を見せないとわかったのか、困ったような顔をしてそそくさといなくなってしまった。
その例に限りませんけど、周りを見渡していると、映画にせよ人間関係にせよ、自分を許容してくれそうなものに対してしか興味のない感じがしますよね。 例えば「愛国心」って一言で言ったってねぇって話じゃないですか。
尹 : 自信の拠り所、というかもたれかかれるものとしての愛国心ならば、もたれかかられる国のほうも迷惑な話ですけどね。
富田 : 自信なんて簡単に得られるものじゃないでしょう。
年食って少しわかるのは、「そういうことはたいして大事じゃねぇな」という感覚で、自分のこだわりに関する興味が薄れていくことの良さですよね。
けれど、一概に言いがたいからといって「しょうがないな」で終わらせていたら、本当にしょうがないだけの話になるので、あるところで腹を決めたら言うことは言う。そういう態度が大事じゃないでしょうかね。なんでも「しょうがないですね」という人はけっこういますから。
尹 : 他人と違う自分がせっかくいるんだから、安易に「しょうがない」で済ませるのではなく、共感にせよ違和感にせよ、自分は何でそう感じたのか?と問いを立てたほうが「しょうがない」で流されない確信めいた何かが自分の中で芽生えてきますよね。
富田 : 「しょうがない」はやめて、「もういやだ!」って言っていいんですよ。もうそろそろ言わないと、あらゆることが止められませんよ、この先きっと。
だから、その時点でできることを「どうだ!」という姿勢で見せる。そういう突っぱねる勢いがないとダメだし。だからといって、自分のやっていることが100%の正解ではないということもわかっていないといけない。
状況がどうあれ、受け入れつつ突っぱねつつ進んでいく。そういう姿勢で生きていくしかない。今はそう思っています。(了)
2012年7月2日
撮影:渡辺孝徳