これまで家族や親族について縷々述べてきたが、我が家で長らく飼っていた犬について触れるのをうっかり忘れていた。
柴犬の雑種でありながら、チャウチャウのような風貌をした彼は、16年と長命であったが、そのあいだついぞ僕になつことはなく、機嫌の悪いときなどは噛まれたり、唸られたりしたものだ。
最終的になついた、というよりも命令を聞いたのは、父ひとりであった。
彼の名は秀吉といった。
よりによもって秀吉、ですよ。なんたる時代錯誤のネーミングセンス!
「おたくのワンちゃんの名前はなんというの?」と尋ねられ「ヒデヨシです」と答えれば、たいがい「秀吉って!」とげらげら笑われたものだ。
名付けたのは兄である。むろん豊臣秀吉にちなんだものだが、なにゆえ英雄にあやかろうとしたのか。その存念については知らない。兄はほとんど秀吉の世話などせず、愛情を注ぐこともなかったから。
在日コリアンにとって豊臣秀吉の評判はあまりよろしくない。なにせ文禄・慶長役という無名の帥を興したのだ。朝鮮は荒廃、明の衰退の原因ともなった戦争だった。
しかしだ、京阪神に住むものにとって阪神タイガースと豊臣秀吉に関する好感は、アプリオリに決定されているといっていい。
かくいう僕も前者はともかく、後者についてはおおいにうべなうところだ。関西に住んでいて、とりわけ豊臣家が滅亡した大坂の陣に思いを馳せると胸が熱くならないものはいないはずだ。
真田幸村(信繁)の家康の本陣を三度突き崩した戦いぶりに、家康憎しの思いを子どもながらに募らせたものだ。
幸村も好きだが、僕がもっとも意気に感じたのは、木村重成だ。(関西人が木村重成を知らないとは、タージンを知らないに匹敵する、恐るべき無知だろう)
重成の討ち取られた後の首実検で髪に香が焚き込められていた逸話などを聞くと、いまなお目頭を熱くする。
東アジアの秩序回復に尽力し、パクス・トクガワーナを打ち立てた徳川家康に与せず、朝鮮半島を荒廃に陥れた秀吉および豊臣方に肩入れするなど、国籍を異にする立場からして倒錯していると思うだろうか。いいや、愛郷心からすれば当然だと判じるだろうか。
愛郷心と愛国心とは重なるところはありながらも位相を異にする。
パトリオティズムは共同体に根を張るのだから、ときに「国籍と人種を越えて連帯できる可能性がある」「パトリオティズムをとるがゆえにナショナリズムに抗する場合もある」などと、僕は両者を峻別できるとは思わない。
生まれたところに対する愛着は執着かも知れない。
愛と執を文化といい、それが暮らしの中に流入している。文化に対する自覚の度合いをときに「誇り」などといい、イズムに結実するとしても、もとの思い入れが愛郷と愛国に分化できるわけもない。
日々生きている現実はひとつであって、分割した現実を生きてはいないのだから。
愛郷はいいが愛国は偏狭だとする人は、それは上御一人の存在を「権威であって権力ではない」と擁護しさえすれば、何か言ったような気になるのと同じだ。権威と権力は糾える縄のようなもので、それを包括するのが暴力なのだから。出力のされ方の問題だ。
現実は分けられず、ただ生きるしかない。現実が錯綜していたら錯綜している現実を生きるしかない。
だから僕の場合はどうなったか?
幼い頃から秀吉に馴染みがあり、それどころか神戸に生まれたことで楠木正成に対する思い入れも強かった。
と同時に、楠木正成が日本の近代史でどのように扱われていたかも知っていた。なにせ「七生報國」だもの。
「七たび生まれ変わっても天皇のために尽くす」と喧伝流布されたこの言葉は、悪党であった正成の本来からすればフィクションであるといったところで、時代の刻印を消すことはできない。
皇国史観で浸された歴史解釈に落着することなく、ちょうど蜻蛉が水面に一瞬触れても跳ね、飛び続けるように、かつその後、水に広がる波紋を胸にとどめるように、僕は日本のナショナリズムと渡り合ってきたように思う。
しかも日本のナショナリズムに対峙する自身のナショナルアイデンティティの公的文書上の立ち位置は「韓国」だが、僕の実感では、そこは常に空欄だった。
空欄ゆえに何が起きるか。
たとえば、僕は真珠湾やマレー沖海戦の映画やドキュメンタリーを見る際は、いけいけどんどんな気持ちになるが、日本の機動部隊の中核が壊滅したミッドウェー海戦はまともに見られない。息苦しくなる。
特攻隊の編成など利敵行為の最たるものである。そう思いながらも出撃していった若者たちの写真を見ると胸をつかれる。
だからこそ、その思いを石原慎太郎のように「君のためにこそ死ににいく」などと大味な物言いに断じてまとめたくはない。哀歓をまるで忖度しない。それは死んで行った人たちへの冒涜だ。
大東亜戦争なるものが植民地解放を目指したという茶番なぞまったく信じていない。そもそも帝国主義が植民地解放闘争を行うなど字義に矛盾があるではないか。
しかしだ。黄色人種が白人を倒すという構図には胸の空く思いがする。
そして、またまた面倒なことに「兵隊やくざ」みたいな中国戦線を舞台にした物語だと、国民党もしくは八路軍のほうに肩入れするのだ。
国家をめぐって何事かを語るのは、熱せられた鉄板の上で踊るようなものだ。
それを情緒過多に受け取って悲哀と解されても困る。僕にとっては滑稽さのほうが先んじている。