東電職員の訪問

雑報 星の航海術

千駄木に越して以来、8年経つが、つい最近まで部屋のアンペア数が50Aだと知らなかった。
そこで昨日、30Aに下げてもらう工事をしてもらった。

ドアを開けると、東京電力の青い作業着を着た人が目に飛び込んできた。
丸顔とずんぐりとした体つき。

ずんぐり加減が指先にまで及んでおり、工事道具をもつ指の、その長さと比べたときの厚みが童子を思わせ、微笑ましくなった。

相好を崩すとまではいかないが、初見の相手には珍しく柔らかい態度の僕とは対照的に、彼は慇懃でもなく、ただソツのない態度でもなく、必要以上の愛想も振りまかず、おずおずとした調子も表立っては見せもせず、だからといって伸びやかな調子でもなく、「ただいまから工事を始めさせていただきます」と、大きくもなく小さくもない声で言った。

彼の姿を見た途端に、僕の眼底に何か焼き付けられるような印象を覚えたのは、おそらく3.11以降、彼は出先で自らの振る舞いを微調整しながら仕事を行なってきたのだろうということが、一手一手を外さないように慎重に運ぶ言動に感じられたからだ。

へりくだったからといって苦言や罵倒を聞かないで済むわけではない。気持ちが挫かれるのを避けられるはずもない。彼が所属する東京電力はそれくらいのことをしでかした。

東京電力に物申したい気持ちは僕にも十二分にある。東京電力前の初回のデモに参加もした。

東京電力の本社前で抗議の声をあげてもオフィスに人影は見えはしたが、誰も姿を表さなかった。僕が話を交わしたのは警備員か警察官だった。誰に何を言えば、何が変わるのか。まるで見えなかった。

こうして僕の部屋に来て働く人と大勢の人に災厄を与えるような杜撰な仕事をしてきた職員、それを看過してきた責任者は、同じ組織として連続性はある。それは組織の一員である確認を組織図上で追ったときに見えてくるつながりでもあるだろう。

巨大で官僚主義に貫かれた機構が一方であり、その組織の具体的な代表が目前にいるが、眼前の人は東電の悪辣さを象徴しているわけではない。

昨日訪れた東京電力の職員は、卑屈でもなければ傲慢でもなく、だからといってどちらにもつかない徹底した自信がありそうにも見えず、ただ、気持ちのゆらぎが仕事に対する信頼を損ねるという確信をもっているような感じがした。

というのも「10分ほど停電になります」と言ってから始められた作業は、10分もかからず、気がつけば静かに脚立を引き上げ、撤収にとりかかっていたからだ。

自分なりの始末というものを考えているのではないか。そう思ったとき、倫理の宿る場所は、確定したところにはなく、手探りの中で信を取り結ぶ中にあるのではないかと思わされた。