ビートニクに引かれてインド参り

自叙帖 100%コークス

ドトールの一件で接客業はダメだと観念した。
宮沢賢治は「デクノボー」と呼ばれるような人になりたいと言ったけれど、僕は努力せずとも純正のデクノボウだった。

その頃、中上健次を読んでいた影響か。肉体労働の健全さに打たれていた。「僕もなよなよした文学的な懊悩を滅却し、赤銅色に焼けた首筋をもつ、そんな野趣ある人になろう」と思い、そこで応募したのが建設現場の仕事だった。

セメント袋を担ぎ、階段をあがる。一往復で膝ががくがくと笑った。赤銅色どころか焦げ目がつくようなハードな仕事だった。「まぁ無理せず徐々に健全な肉体に近づこう」とあっさり一日で転進を決めた。僕の血中デクノボウ度は極めた高い。

次に始めたのは道路工事の交通整備の仕事だ。10日ほどの超短期のバイトならなんとかやり通せるだろうと思ってのことだった。2日に渡る研修期間中に旗の振り方などを覚えて、いざ現場に向かった。

現場は芦屋の高級住宅街に近く、行き交う車のうちベンツやBMW、ポルシェといった外車の占める割合が極めて高かった。

真夏の炎天下、ヘルメットを被り、旗を振って車を導き、頭を下げて停車をお願いする。
場所が芦屋とはいえ、ガラのよろしくない人もたまにおり、「いつまで工事やっとんじゃ」「早よ車通らせろや」などと罵声を浴びせられることもある。そんなときは、ひたすらマニュアル通り、「申し訳ありません」と低頭し、謝る。

現場のリーダーからは「とても冷静な対応だね」と誉められる。

盛夏でも涼しい顔をしているとよく言われる。薄い顔の造作のせいだ。
だが水面を優雅に泳ぐ水鳥の、水を掻く足は人の思っている以上に無様なくらい忙しないように、シュッとした顔をしていても、暑さと湿気嫌いの僕の内心は、夏に対する憎悪から歪んだ顔つきをしている。

青白い精神を焼き尽くす肉体労働の健全さに憧れはしたが、うっかり忘れていたのは、汗でしとどに濡れた衣服を身につけ続けるなどまったくありえず、汗をかいたらすかさず爽快バブシャワーで水を浴びたい質だということだった。

僕は顎に結ぶヘルメットの紐の尾に汗がたまっていくことがまったくもって許せず、怒りが募ってきた。
背中を股を汗が伝い、不快さがいやましていく中、ひたすらアスファルトの照り返しとエンジンの熱気と怒声になぶられ続けるとは、僕にとってはモサドもかくやの拷問に近い。

本来ならば、ヘルメットを叩きつけ、「やってられるか、ボケ!」と即刻帰りたいところだ。でも、そんなことしたらデクノボウに加えて性格破綻者になってしまう。

暴発しそうな気持ちを抑え、車を誘導する旗をめちゃくちゃ振った。半ば自暴自棄だった。そしたらリーダーに「君の旗振りは、わかりやすくてたいへんいいよ」と誉められる。

コミュニケーションにおけるねじれの位置を常に確保し続ける自分の芸の意味がわからない。

交通整備のバイトを終えてしばらくのある日、なんとはなしに三宮の繁華街を歩いていたところ、背が曲がり、髭と髪を伸ばし、エスニックとラスタファリアンをミックスしたような格好の人がこちらに向かって来る。

はてと目を凝らせば山田塊也さんだった。

『アイ・アム・ヒッピー』の著者だといったところで知らない人も多いかもしれない。

山田さんは60年代の日本のヒッピームーブメントを牽引したひとりである。
たまたま前年の大学祭のイベントでお招きしたのだが、山田さんとの出会いから、僕はゲイリー・スナイダーやジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグといった、ビートニクの存在を知ったのだった。

加えて、音楽をそれまでほとんど聴かなかったのだが、ビートニクやサイケデリックという語が飛び石のようで、それらを渡っていくに従い、ドアーズやジミ・ヘンドリクス、ヴァニラ・ファッジ等々を聞くようになった。

僕は山田さんに声をかけたところ、覚えてくれていたようで、喫茶店に誘われた。
コーヒーを飲みながら、「いや、インドに行こうと思ってね」と山田さんは話された。神戸のインド領事館にビザの申請に行った帰りだという。

喫茶店で何の話をしたのか皆目覚えていない。ただ「インドはいいよ」と何度か言ったことだけは記憶している。

山田さんは会社とローンで買った家の往復で一生を過ごしたり、ものを買ったりすることを娯楽にしてしまうような市民生活というものに背を向け、独自の共同体を夢見ていた。
それは中途で挫折したようだけれど、いまにして思えば共同体に込めた構想と挫折の顛末について聞いておくべきだった。

3.11以降、現行の政府がなんらあてにならないことがバレてしまった時代の中で、あらゆる制度からオフグリッドに生きる智恵を練る準備を早くから始められたのじゃないかという気がする。

あのとき山田さんとばったり再会し、「ではまたいつかどこかで」と言ったきり今生では死に別れとなったものの、山田さんの「インドはいいよ」を聞かなければ、僕はインドへ旅する気持ちなんてついぞもたなかったかもしれない。

青春ノイローゼとインドの組み合わせは、恥ずかしすぎるが、唐突にインドへ行くことに決めた。
まさか地域紛争に巻き込まれたりするとはそのときは思いもしなかった。