卜占とエクスタシー

雑報 星の航海術

先日、ふと思い立ち、香取神宮へ参りに行った。
香取に鹿島といえば武の神であり、またふたつの社とも地震を起こす大ナマズを封じる要石の存在で有名だ。

大ナマズを鎮める要石。思いのほか小さい

あいにく香取神宮に御座した神は、いずくにかに去った気配が濃いものだった。その名残を求めて境内を逍遥したところ見事な杉があり、しばし眺めていた。
木も樹齢数百年ともなれば、霊性と呼ぶしかないような何かが宿るようだ。

これまでに表あるいは裏の世界で異能者と呼ばれる人に会って来たことと、加えて巫祝を生業にしていた祖母がいたことから霊性に関することや卜占、そのほかスピリッツ等々について見聞することは嫌いではない。

むろん、巫祝の世界にはピンからキリまでおり、圧倒的に偽物が多いことは承知している。

だからといって孔子が出自である巫祝を激しく嫌ったようには、贋物を糾弾する気にはなれない。
イワシの頭もなんとやらでフラシーボで救われる人がいるんなら、方便として時にはイワシも必要なこともあるだろう。

正論や権威ある真っ当な見解のピースを当てはめていけば、生の絵柄が充実してしまえると思うのなら、よほど世知に疎いか人間を舐めているか。ある種の高の括り方を揺るがされた経験がないんだろうと思う。これは僕の偏見だが。

確かに触れることのできない世界を毛嫌いする気持ちもわからないではない。
だが、そうした反駁するに使用する言葉、漢字からして、その揺籃を巫祝において過ごしている。

漢字は約4000年前、殷代に獣や亀甲に刻まれた甲骨文字や金文に始まる。

これらの文字に託された世界を実感させる力を、かの白川静は呪能と呼んだ。


呪と聞いて僕らはただちに呪いを想起する。しかし、呪とは「祝う、念じる、どこかへ行く、何かを探す、出来事が起きる」といった、人が現実に働きかける際に抱く強い願いや思いを意味する。

甲骨文字に白川は呪能を見て取った。なぜなら、骨に刻まれた文字が「貞卜」にほかならなかったからだ。
貞卜とは、卜占のことだ。

卜占では、甲骨に傷をつけ、裏面から灼く。主に縦方向に規則的に走るヒビによって吉凶を占う。
その際、前もって占うべきことがら「貞辞」を甲骨に刻むのだが、これが「最初の呪能文字」「神聖文字」であり、5000種あまりが確認されている。

貞卜や貞辞は非科学的な迷信であり、呪能などは現代とは無縁の心性に思えるだろう。

サイバネティックスの研究者であるグレゴリー・ベイトソンによれば、ガラスのように均質で純度の高い物質になればなるほど、その割れ方は予測不能だが、あらかじめ傷をつけておけば、ガラスの四散の仕方はおおむね予測可能になるという。

つまり、獣骨や甲羅につけた傷は、人が世界の運行に対して立てた仮説であり、ヒビ割れは実証結果である。仮説と結果とのズレによって、占うもの、願うものの可能性を量ることができる。

ヒビは現実と願いの差を示すサインだと理解すると、貞卜の示す古代世界の呪能がにわかに生々しく感じられる。
その気配を感知したとき、眼前の杉は「杉」という語には収まり切らない、うごめきを始める。

人間にとって不可知の世界からの応答を焼きつけたものが漢字であり、そこには古代の祭祀と習俗の記憶が刻まれている。

そうした記憶の断片に感電するとき、僕はしばしダイモンに語りかけられるような心神の喪失を覚えるのだ。