招かれざる観光客

自叙帖 100%コークス

シュリナガルはインド最北部に広がるカシミール地方の州都にあたり、美しい湖水を山々が取り囲む風光明媚な地だ。

州の中で最も大きな街は、イスラム教徒が多数を占めている。地勢と宗教の事由からパキスタンとインドが領有を主張し、たびたび紛争が起きている。そんな地だ。

そういった事実を91年当時の僕は皆目わかっておらず、暢気にシュリナガル空港に降り立った。

ただ税関を通過するあたりから「なんかへんだなぁ」と感じていたのは、あまりにも職員がウェルカムな姿勢ではなかったからだが、どだいインドに来てからというものの、虎視眈々と商機を狙う媚態微笑はあっても、ホスピタリティ溢れる笑顔に迎えられたこともなく、「これがインド基準なんだろう」と、自分の内に湧いた違和感を努めて流すようにしていた。

そう、インドに来て僕は他人の顔色をうかがうことの無駄さを知り、また「近代自我というものはフィクションではないか?」の思いを強く抱くようになった。互いの心の生み出す軋轢や内面の葛藤など幻じゃないかと思うようになった。

たとえばだ。

インドでは列車に乗る際に誰も順番を守りはしない。それは別に良いのだが、乗り降りが同時に行われるので、そこかしこで諍いが毎度のように始まる。だったらルールを定めれば、衝突はなくなりそうなものだが、そうはならないようだ。そこには関心が向かないようなのだ。

日が経つにつれ、そうした光景をただ見て「なぜだろう」と傍観しているだけでなく、自分も列車の乗り降りの只中に身を置くようになると、我勝ちの剥き出しさ加減を抑制する術が、よほど特殊な技であるかのように思えてきた。そうなると、他人の振る舞いにいちいち葛藤を覚えなくなる。

自分の期待に応えない人物の登場に「なぜあの人はあんな行動をとるのだろう」というような、心中が違和感で彩られた内語で埋め尽くされるような機会がどんどん減ってき、自我に根をはった懊悩なんかつくりものめいて見えてきた。

そう思えるようになってきたあるとき、いつものように乗客と降客とが、狭い通路で海流が入り混じるように激しくぶつかり合いながら行き交っている最中、薄汚れたアルミの鉢を片手に、細い杖をついた盲人がやって来た。

彼は薄いサンダルで床のゴミを踏みつつ、これから降りようとする僕のいるほうに向けて歩いてきた。

列車の床はゴミが散乱というより充満している。
駅ごとにチャイを盆に抱えた売り子が日本語にすれば、さしずめ「チャイはいらんかね」といった口上を述べ、売りに来るのだが、窓越しに求めた客はチャイを飲み干すと、素焼きの土器を窓から外へ投じるか。もしくは床に捨てる。

したがって床は土器の破片をはじめ、ピーナッツのような果実の殻、食べこぼしたものなどで覆われていく。

盲人を見、僕は物乞いかと思った。乞食は別段珍しくない。
だが彼は何か歌うように、唱えるように、そう、高吟とはこういうことかと思わされる抑揚のついた言葉を歩きつつ紡ぎ出していた。吟遊詩人だろうと見当した。

彼は詩を諳んじながら左手の鉢を左右にいる人たちに差し伸べていた。

だが、吟遊詩人がいるのは乗降客でごった返す波の中だ。彼を取り巻く老若男女は盲人の遅々とした歩みに、あからさまに苛立った表情を見せるでもなく突き飛ばし、突っ慳貪な態度を隠すことが一切なかった。彼はうめき声ひとつあげない。

だが、肘鉄砲を食らわした後で、人々はルピー硬貨を彼の鉢にねじ込むのだ。

その光景を見たとき理解に苦しんだ。邪険に扱った代償として金を渡しているのか。それともこれは布施なのか。

「弱者に優しく接する」という文言からイメージされるに相応しい、優しく接するっぽさなど微塵もないが、彼らが生きていく権利。それは明文化など必要としないような、「生き物としてここに生きてある」という事実を決して無視してはいなかった。
「安っぽいヒューマニズムに回収されない強靭な何かが横たわっている」という文句に回収することそのものが安っぽいように思えた。

盲人は相変わらず混雑した車中を抜けるとタラップを降り雑踏に消えていった。
混雑するプラットフォームの隅には、駅に住んでいる家族が何組かあり、チャパティだろうか。生地を練りつつ、煮炊きに忙しそうだった。

レールの上には牛がおり、糞がそこかしこにあった。

プラットフォームを家族と歩いていた老婆はひとり離れ、端におもむろに座るとサリーをまくりあげ、放尿をはじめ、そのまん前を駅員が線路の点検のためか過ぎていたが一瞥をくれることもなかった。

峻険なまでの個の屹立と呼ぶべきか。インド社会の個人と個人のつながり具合がどのようなものなのかさっぱりわからなかったが、結局のところ、目前の景色の意味を探ろうとしても、その持ちだす基準が日本で培ってきた価値観。

つまりは日本という国で育んできた文化的慣習という名の癖からの見地である以上、その意味を探ることは無意味だと次第に知れ、以来、僕は考えることを止めた。

すると、人間と牛と犬と羊の区別がつかなくなってきた。野良牛に野良羊、野良犬、野良人がそこにいた。

話を戻すと次第次第にそのような感覚を覚えてきたところでのシュリナガルでの無愛想な加減に、疑心をさほど抱くこともなくなっていた。

だが、空港で感じた違和は外れてはいなかった。湖水に浮かぶハウスボートのホテルの部屋に荷物を投げ込み、街に出たものの観光地でありながら、あまりに閑散としていた。訝しく思っていたところ、住人が例によって「ハロー、ジャパニー」と話しかけてきた。そこでわかったのは、どうやら外国人の入境規制が敷かれていたらしく、本来ならば僕は入れなかった模様なのだ。どうりで自分以外の観光客を空港でほとんど目にしなかったはずだ。

僕がシュリナガルに入ったのは日曜日。一昨日の金曜、モスクが駐留するインド軍によって焼かれた。ガイドを駆って出た住人は僕をモスクに連れて行ってくれた。

インド軍は独立を目指すゲリラを掃討する目的かはたまたムスリムへの見せしめのためか。礼拝の行われる曜日にモスクを焼いた。
ところどころ黒煙で煤けたモスクを前にガイド氏は、この地方の住む者の憂いについてひとしきり語った。

インド社会のあまり語られない事柄について知って欲しいと熱弁した後で、「ほら」とばかりに手を差し出した。レクチャーにへの対価を求めることを忘れてはいなかった。