島影は見えず

雑報 星の航海術

人前でしゃべることが不得手だ。
2年前に立教大学で行われた「21世紀の幸福のかたち」というタイトルで催されたシンポジウムになぜか招かれ、大手企業のCSR担当とか著名な文化人が名を連ねる中、一介のライターが参加したわけで、数百人の聴衆からすれば「誰やねん」って感じだったろう。

完全にアウェイの状況で15分のスピーチとパネルディスカッションに参加することになったのだが、しかもヘーゲル研究で知られる長谷川宏先生の後に話さなくてはならなくなった。
さまざまなプレッシャーから結局のところ、用意した原稿を顔を伏せて読み上げるだけに終始してしまった。

そんな苦い記憶があるだけに、ワークショップ「生きるための文=体」の行われた14日は捲土重来と心を決め、起床とともに、心中にはZ旗が翩翻と翻った。「各員一層奮励努力セヨ」という構えで臨んだわけだ。

以前なら話すべき内容の一字一句を記憶し、それを諳んじるように進めたろうけれど、今回はそういうことは一切しまいと考え、いままさに起こりつつある事柄に身を投げ出そうと考えた。そのため流れだけをメモしたものを手元においてスタートした。

だがしかし、漕ぎ出した船は数分後には不穏な動きをはじめ、10分過ぎた辺りの話がまだ沖合に出たばかりの頃に、完全に方角を見失った模様で、風は凪いでしまい、島影も見当たらない状態となった。水夫も火夫もみあたらない。

「もういっそ入水しようか」と思う瞬間がいくども訪れた。このまま行くと、曙のようになるなと思いもした。

「完膚なきまでに」を文字通り体現した見事な大の字

でも、どこかで「切羽詰まった状況って嘘がつけないもんだな」とおもしろくも感じる自分も確かにいた。

普段の暮らしなら、自分にとって都合のいい理由を並べ立てたり、他人任せにして自分を客観の立場に追いやることもできるけれど、他ならぬ自分が自分から離れることのできない瞬間の訪れにおいては、自分のありのままが問われ、その場でできること以上にできることはないという端的な事実を否応なく突きつけられる。

自分のありようというものがただ問われる。そういう瞬間に立ち会えたことはすごく幸せなことだった。

漂流中。

僕のワークショップは、受けたからといって文章が書けるようになるとか、そういう類のものではなく、「文章を書くという行為とは何か?」「それを通じて何が見えてくるのか?」を眼目にしているけれど、一方的に何かを教えるという性質ではなく、むしろ自分には何が見えているのか?が問われてくる時間だなと思わされた。

終わった後、左脳の部位だけが痛むというこれまで経験したことのない頭痛を覚えた。

苦しかったけれどおもしろかった。
これを糧に次回はもっと苦しくおもしろい時間にしたい。

お越しいただいた皆さん、ありがとうございました。来月25日に2回目を行うのでまたご参加ください。