逃避行

自叙帖 100%コークス

ニューデリーの旅行代理店のオヤジはたしかにこう言った。

「そこの若いの、ジャパニーよ。如是我聞。イタリア人はナポリを見て死ねと言うらしいじゃないか。インドでそれを言うならば、さしずめシュリナガルであろう」

オヤジにはthird generation of Koreans living in Japanという概念がわからないらしいので、僕をジャパニーと呼ぶ。ヨーロッパでもアメリカ、タイでも同様の反応だったが、まあそういうものだろう。

船側に商人が海賊のように乗り付ける

それはさておき、オヤジ一押しのシュリナガルであったが、入境規制が布かれていたものの入ってしまったのだから、それはいいとしておおいに閉口したのは、地元の商店街がモスク焼き討ちに対する抗議として一斉にストライキに入ったことだ。満足いく食材が手に入らなくなった。

パンフレットには、湖に浮かぶ優雅なハウスボートとそれなりに豪勢な料理が紹介されていたが、実際に出されたのは朝は紅茶と10センチ角のトースト。昼も同じ。夜はチャパティと豆のスープ。従業員は「仕方ないね」と肩をすくめるばかり。

2月のシュリナガルは寒い。そもそもこんな季節に避暑地に来たことがおかしいといえばおかしい。
当時の僕はアホみたいにボクシングをやりこんでいたせいで腹筋は割れるなどマッチョな体型で、たぶん体脂肪率もかなり低かったと思う。脂肪が少ないと冷えに弱い。食事を取らないと覿面にそれが現れる。薪のストーブは焚かれてもそれだけでは身体の芯からは温まらない。

温かい紅茶にどかどかと砂糖を放り込み、ミルクを入れて腹の足しにしようとするが、利尿作用が高まるだけでいっこうに腹はくちくならない。

僕は食い意地が張っているので、お腹が減ると途端に倦怠感が募る質だ。そんなアンニュイな心持ちのところに連日のように来襲したのが物売りだった。

ハウスボートに「甲子園球児のエースの連投か!」「わんこそばの継ぎ手か!」とツッコミたくなるくらい、次から次へと物売りがカヌーで乗り付けては部屋にやって来る。ホテルのほうも咎めはしないので、持ちつ持たれつの間柄というやつだろう。

「よく見ろ。これは本物のサフランだ。日本で買えば高いぞ。おまえには安くしておく。これでサフランライスをつくればいいじゃないか」「インドへ来たからにはパージャーマーとクルタを買うべきだ」と口上をそれぞれが述べる。パージャーマーとクルタというのは、インドの民族衣装のひとつで、パジャマの語源と言われる。

インドの代表的な衣装、パージャーとクルタ。

どうせなら日本に帰国してからでなくいますぐサフランライスが食べたいし、衣装では腹は満たされない。僕はにべもない態度で「いらない」とひたすら言い続けた。

インドの商人はけっこうグイグイ来る。1ミリでも勝機あるいは商機があると思ったらオールブラックス並の勢いで突進して来る。
インドに着いた当初はその攻勢にやられっぱなしだったが、次第に相手の顔色をうかがうことがコミュニケーションのやり取りではないらしいと気づいてからは、「いらない」と素直に言えば、相手は渋々引き下がることを知った。ただし、相手を根負けさせるくらいしつこく言わないといけないが。

連日のようにやって来た商人をかわし、僕はひとり街へ出て、食料を求めた。
商店もレストランもどこも扉を閉ざしていたが、中に一軒香ばしい匂いをさせている店があったので、表をほとほとと叩いた。若い男が出てきたので、「食べ物をわけて欲しい」と言ったところ、チャパティを数枚わけてくれた。

日曜日にシュリナガルに入り、はや4日経っていた。
紅茶をがぶ飲みしつつ手に入れたチャパティを食べていたら、ホテルの従業員が「今日夜半に何か軍に動きがあるらしい」と教えてくれ、ラジオを貸してくれた。

拙い英語力しかないが、従業員がラジオの放送を伝えるところによると、「明日はモスクの焼き討ちから一週間であり、礼拝日である。ふたたびムスリムと軍とのあいだに衝突が起きる可能性があることから道路封鎖が発令された」という。

すでに夜間外出禁止が布告されていた。そんな中、ただでさえひもじい思いをしているのに、この上道路封鎖令まで出てしまっては、物流はストップするし、街から外に出るチャンスを失う。
紛争多発地帯における道路封鎖というものがどのレベルの緊張状態なのかわからないが、これ以上物流が滞ったらトーストさえ手に入らなくなる。僕の行動の基本は食欲だった。

“I want to run away”
なんでもっと英語を勉強しておかなかったんだろうと、内心途方に暮れながらそう従業員に言ったところ、湖の向こう岸まで運んでくれる人をあたってみると請け合った。

明け方、ターバンを頭に巻き、髭を蓄え、ついでに黒々とした眉毛もつながった男が現れた。男は「危険なんだから、それくらいは当たり前だ」と日本円で1万円程度を要求した。20円もあれば十分な食事が取れるからかなりの額の要求だが、交渉の末、5000円程度にまけてもらった。

ボートに乗ると上からゴザをかけられた。男はパドルを漕ぎ、ボートは静かに岸を離れた。
明け方の湖上は思っていた以上に寒かった。身を隠さなくてはならないということは、この時分の出境が違法な行為であるということであろうけれど、その違法がどういう根拠によっているのかわからない。判断のしようもないが、寒さに震える反面、この奇妙な脱出行にわくわくしていたのも正直なところだ。

ボートは幾度か橋をくぐった。橋にさしかかると男は「静かにしていろ」と合図をした。ゴザの隙間から上を覗くと、検問所が設けられ、インド軍の兵士がライフルを掲げていた。ときおり兵士が何やら男に声をかけた。語気鋭く聞こえ、ヒンドゥー語で言うところの誰何であろうかとビクリとしたが、「今日はどこへ行くんだ?」とでも言った内容だったか。特に問題なくボートは進んだ。

兵の中にはシーク教徒がいた。彼らは髪の毛を切らず、それをターバンに巻くが、兵士であってもその戒は守れていると見え、シーク教徒の兵らはグリーンのターバンを巻いていた。「しかし、それではヘルメットが被れないではないか。では絶対にパイロットになれないということか?」と、高まる緊張の中で不釣合いな素朴な疑問が湧いて出た。

どれくらい時間が経ったのかわからないが、とりあえず向こう岸に着いた。男はグッドラックというでもなく、無言で去っていった。

ボートから降ろされた街の名は覚えていない。バスに乗り大きな街に出た。たしかジャンムーと言った。

その頃になるとガイドブックをあてに行動することはなくなり、でたらめの英語と直感で行くべきところを定めていた。「おそらく長距離バスの起点になるところはあそこだろう」と見当をつけ、見知らぬ街を歩けば、そこに必ず行き着いた。

サモサをつまみつつ、発券所でデリー行きの夜行バスのチケットを買う。
バスの屋根には荷物だけでなく、座席に乗りきれない人間までが積み上げられ、サスペンションというものがもともとないかのように路面のショックを直に伝える明らかに過荷重の車体は、つづら折りの峠を越えた。

カーブを曲がるたびに車体は大きく傾く。切り立った崖の下にはときどき転落した車を見かけた。運転手はブレーキを踏む走法があまり好みではないと見え、エンジンをぶん回し、ときに反対車線を走りつつ先を急いだ。先を急ぐ一方、運転手の気まぐれで挟まれた休憩時間では、1時間以上食事を取り、乗客のブーイングでやおらハンドルを握り直すという塩梅であった。

明け方バスはデリーに着いた。何時間経ったのか。あるいは数日経ったのかもしれない。まったく覚えていない。