人生はすりこぎ、か?

雑報 星の航海術

社会に出る直前にシモーヌ・ヴェイユの『工場日記』を読んだ。
恐らくは運動神経がよくなく、事務作業などを始末する要領もかなりよくないであろうヴェイユが持病の頭痛を抱えつつ、プレス工場で働いた期間について綴った日記だ。

僕の労働に対する印象は、この本で決定的になったところがあって、それは単純な価値観を疑わず、それが要する考え方を身に付けないことには始まらない。そうして慣れて「仕事ができるようになった」と周囲に評価される頃には、精神がくたくたに疲弊するというもので、いずれにしたって世の中に出りゃすり減って、小突き回されるのだ。そんな予見に戦いた。

そう、「とん平のヘイ・ユウ・ブルース」が絶唱するところの「俺はすりこぎにされちまったんだよ」以外に道はないんだと思うと、暗澹たる気分になった。

そして、実際蓋を開ければ、不安に思った通りのことが起き、自分の身の置所のなさをかこつにあたっても、往時ロスジェネという取り回しのいい語もまだない頃であれば、自身の陥っている事態を構造から説き明かすことができず、すべての原因は己の無能さであり、畢竟「人生はすりこぎだ」の思いを強くしていった。

派遣労働の苦境は構造の問題であることが見えるにしたがって、「所詮人生はすりこぎだ」と単純化することはなくなった。
しかし、うっかりするとすりこぎにされちまう可能性は十分にあるとは思っている。

すりこぎから脱せる人とそうでない人がいる。両者を分けるのが才能や努力というものだ。

こういう考えになんとも収まりのつかない気持ちになる。振り返って自分の足跡を見たとき、それが才覚や努力の賜物と見えることがあるというだけで、成功するにせよ失敗するにせ本当の本当の理由はわからない。

というか、成功や失敗がある時代の価値体系に沿うことであるならば(いまさら僕が四書五経を覚えて科挙の試験対策に勤しんでも成功は勝ち得ないだろう)、それらを人生上の大問題かのように扱うのは、針小棒大というものだ。

そして、もし死に至るほどのしくじりを失敗というなら、すべての人間はいずれ失敗することが予め定められている。すべてが失敗に帰するならそもそも成功も失敗もない。

成功を目指す才能や努力には意味がない。

才能の開発や努力それ自体に傾けられる時間は稔りをもたらすことはなく、ただ冗長性を生むだけだ。
この先延ばしされた冗長的な教育に価値を置く期間のうちに、人はすりこぎにすっかり変えられる。

「素質」という語に注目したい。素質とは、「生まれつき持っている性質」であり「将来すぐれた能力が発揮される」とみなされる「可能性」のことだが、このふたつの考えの結びつきはとても興味深い。

可能性とは、「あらかじめ備わっている能力が発揮される」様子を示している。つまりは潜在した事実のことだ。

素質という概念は、時間的に先行しているはずのものが、現在に既にあることを示している。生まれつき持っている性質がそのまま能力の可能性ならば、私たちがなすべきは、冗長的な時間の中で成功を手に入れるための知や情報、資格といったアイテムの収集ではなく、「持っているものをそのまま発揮する」だけだ。

素質の発揮を阻害するものは何か。これについて考えることが、すりこぎにさせられてしまうことから脱する道なのではないか。

僕の住まう近隣の商店街に魚屋がある。親子で経営しているのだが、「本当に魚が好きなんだな」と感じられて仕方ない。

金を払い、いまどき珍しく経木でくるんだ魚の身を受け取り、つり銭を渡されるまでのやり取りの中に、僕はどこか海の豊穣さを前に随喜の表情を浮かべる漁師たちとのつながりを彼女たちの背後に感じる瞬間がある。

僕は魚を買っているのではなく、海から生じた歓喜のつらなりに対価を払っている気分になる。
仕事というのは、扱っているものの売り買いではなく、実に商品以外のものを授受しているのではないか。

私の胸中のこの喜ばしさを伝えたい。
交換の始まりは、そうした思いを伝達する行為=仕事から始まったのではないだろうか。