サドゥーについて

自叙帖 100%コークス

今日は箸休めの話をひとつ。

インドの人口は約12億だそうだけれど、数千万人規模でサドゥーがいるんじゃないかと思う。サドゥーというのは、ヒンドゥー教の行者で家をもたず、結婚をせず、生涯を旅に暮らし、行を通じて神に近づこうとする人たちのことだ。

サドゥーのてんこ盛り

行という文言に惹かれる人は役小角を、神に近づくことに憧憬を抱く人は、アッシジのフランチェスコを思い浮かべるかもしれないけれど、高野聖や毛坊主に近いんじゃないか。

何が言いたいかというと、欲得に対して距離を置くというポーズが本当にそれらから離れているわけではないということで、たとえば彼らに銭をせがまれたことがあるのだが、断ったり、「そんなにはあげられない。まけろ」と言ったらば、怒り出すサドゥーがいた。

こちらからすれば、神に近づこうとも思えぬ業突く張りなのだが、そう言おうものなら、「自分のものを出し惜しみしているおまえこそが欲に囚われているではないか」という迫り方をしてくる。
そこにはあっけらかんとした欲の肯定というよりも、処世の上での業じみたしがらみを感じた。

布を巻きつけた半裸、あるいは全裸の彼らを街中でよく見かけた。
当初は、塵埃を避けることなく、身を欲望渦巻く都市に置くとは、そうとう心胆を練らないと行をするにも困難ではないかと思ったのだが、彼らは街角にたむろし、チラムでマリファナを吸ったり、水浴をしたり、観光客に喜捨を迫ったり、都市を満喫しているようだった。

足を上げる行を続けるサドゥー

ちなみに僕がインドに行った前年の90年までは、「地球の歩き方」によると政府直営のマリファナ販売所があったようだ。どういう理由からかわからないけれど、91年からは廃止された。
だから、いちおうマリファナの所持は禁じられていたようなのだが、それも守られていない模様で、警官の真ん前でもサドゥーらは車座になり、マリファナを回しのみし、甘い匂いを周囲に漂わせていた。

五体投地を続ける。片足や片手を上げ続ける。爪を伸ばし続ける。そんなサドゥーをたくさん見かけた。
苦行を生涯己に課す姿に「えらいもんだな」と思いはしたが、むろんその「えらい」は立派というよりは、「難儀な人もいてはるもんやなぁ」に近い。

心身の困憊の極みまで苦行を徹底的にやりこんだブッダは、苦行を通じて悟りに至る道を一切否定した。ブッダの理屈によれば誤った方法で正しい結論を求めることは到底不可能なことになるはずだ。

サドゥーの苦行についておもしろい意見を聞いたことがあって、それは「止め時を失ったから止められなくなった」というものだ。なるほどと思う。

手を上げ続ける行では、血の通いが悪くなり、半ばミイラ化したような枯れ木のような細い腕になる。
そこまでの状態になれば苦痛も感じないかもしれないが、その中途ではきっと痛みを感じたろう。「なぜこんなことをしなくてはならないのだろう」と思ったこともあったろう。

日毎に募る痛みを凌駕したのは、「これをすることに意味があるはずだ」との堅い思いだったろうか。
だが、それは意思の強さに見えて、内実は苦痛それ自体に意味を求める鈍感さと怠惰さだったかもしれない。魂の覚醒とは程遠い、いっそう深い眠りへの道ではなかったか。

もっと平易に言えば、断念する勇気を欠いただけのことかもしれない。

「おもい」を表す漢字に思・惟・想・憶など多々あるが、念は中でもベタついた質感をもっている。
「おもいつめる」といった凝らし方を表すのにうってつけの文字で、だから断念とは、リアルタイムからずれた思い込みや妄想をすっぱり断つ意味であり、悔いを残しつつ諦めるのとは違うだろう。

だから念を断つには新しい地に向かう勇奮が必要なのだ。
そう、「犀の角のようにただ独り歩め」とブッダが言ったように。

サドゥーを見て思うのは、俗世間から半ば離れた存在だという僕からの距離の遠さよりも、俗世に渦巻く欲望や思惑を極端な形で体現している、身近過ぎて直視したくない存在だということだ。
欲得へのこだわりや、そのこだわりを否定することへの囚われも、実感という妄想に重きを置くことにおいては、同じ穴のムジナだ。

こだわりは欲という己の実寸を離れた欲望、欲得、欲念であるからして、それが達成されたとしても飢えが癒えることはない。もともとが現実にはない膨らみを帯びてしまった想像上のものなのだから。

本当にありもしない妄想を前提に、それを否定する行をしたとて、妄想との格闘が延々と続くばかりで、個の修行は完成されることはない。

安易な否定も肯定もせず、どのように生を全うすべきか。彼らを思い出すたびに、そんなことを思う。