母の峰打ち

自叙帖 100%コークス

男の人がわりと苦手だ。
男性一般に父を見てとり、それに脅えているからではない。僕にとって男性は極めて性的な存在であるがゆえに緊張するのだ。

他者に性を感じるというと、つい「恋しちゃったんだ たぶん気づいていないでしょう?」(YUI「CHE.R.RY」)のような状況を連想しがちで、「つまりはホモセクシャルだということか?」と思うかもしれないが、そう短絡したものでもない。

こういう経験はないだろうか。
仕事の上での付き合いで、「すごいな。話を聞きたいな」と思った人でも、飲みに行ったり個人的な付き合いになると幻滅してしまう。
そういう人は打ち解けた証に決まって女性の話を口にする。女性についてだったらいいのだが、大抵はその人の抱く「幻の女」についてで、これを聞かされるのはけっこうきつい。

だいたいお酒が進むと脇が甘くなって、「女というのは〜」という話がひとくさり語られる。
ご当人は、女性を語ることによって池波正太郎的な男の流儀みたいなのをぶちたいのだろうけれど、「〜」には“母性”とか“感情的”“かわいげ”とか、「女は地図が読めない」式の一山いくらで売ってそうな与太話が代入されるわけで、心底がっかりさせられる。

人並み以上の知性もあれば社会的地位もあるのに、なぜかセクシャリティまわりの話になると、通常運転時に発揮されるはずの類推力を微塵も感じさせない。あまりの話の奥行きのなさに目眩がする。

スペックと比べての収支の合わなさを不思議に感じることが続いたので、ある日、友人に「あれは何なのかね?」と尋ねたことがある。すると彼女は煙草をくゆらせながらこういった。

「あのね。できる男の私生活の姿ってだいたいつまらないものよ」

蓋し名言だ。

話を戻す。
性の違いが能力の決定差でもあるかのような見積もり具合にうんざりするのだ。しかも、たかだか企業社会で通用する程度の間尺しかないような測定を真理であるかのように後生大事にしている姿に呆れてしまうのだ。

あまりにジェンダーバイアスのかかりまくった、軽侮の念の入った領域に話が進み、こちらの不快指数が増したときは、こう言うことにしている。

「なるほど。そうするとあなたのお母さんもそうなんですね」

酒の席は一気に白けますわね。バカにするなと言わんばかりに顔を真っ赤にするか蒼白になりますわね。バカにしているのは、僕ではなくてあなたなのだけど。

その手の話の最中に母親を引き合いに出されると、ものすごく居心地が悪くなるようだ。そういう人にとっての女性というのは「お母さんか玄人」しかいないようだ。

前者は、息子たる自分が悪態は吐いても、自分をいつも肯定してくれる存在として想定しており、後者は、自分を優しく叱ったり、宥めてくれたりと、これまたお母さん的に自分を肯定してくれる存在で、結局のところどちらにしたってお母さんなのだ。
傲慢さと卑屈さを往還する中でしか異性を捉えることができない。

往復の道行きをマザコンという。男が最初に出会う異性が母である以上、すべての男はマザコンだ。
“すべての男はマザコンである”という言明は、「だから仕方ない」と開き直りたいから言うのではなく、異性の初期設定モデルが母である以上、異性を「自分とは違う他者」として捉えにくい。
そういうマインドセットを対象化しにくいからこそのコンプレックス(複雑さ)なのだ、ということを自覚するために必要だ。

かくいう僕もそうだ。これまでの恋愛において、他者を他者として見られず、自分の中の女性像を相手に投影して、期待と違うところに勝手に懊悩して見せたりした。

懊悩を文学と呼んだら、日本の自然主義の小説になるから物は言いようだけど、実態に即せば馬脚でしょうよ。人生の終わりにゴールテープがもし引かれているなら、馬脚ではなく鼻面から倒れ込みたい。それまでは次々と生えてくるであろう馬脚を切りながら走りたいものだ。

自分がケンタウロスも真っ青の馬脚のしかも意外と健脚の持ち主だと気づかされたのは、うっかり肯定を求めてしまえるような母ではなかったことが要因としてあったろう。

母は学生時代、ソフトボール部で汗を流し、運動好きの明るい性格だった。ところが結婚し、僕を生んだ後、膠原病に罹った。
この病気はいまでも治療法が確立されておらず、原因は特定されていないのだが、膠原病が自己免疫疾患ということから精神的な要因があるのではないかと考えられており、そうなると結婚に伴うストレスが彼女の発病を促したと大いにいえる。それについては追々書いていくつもりだ。

ともあれ物心ついたときから、母は疲れ易く、床に臥せることが多かった。それでも専業主婦であることの矜持からか、あるいは父の期待からか食事は必ず手ずからつくっていた。

快闊に動ける日が少なく、常に微熱があり、だるそうであった。肌が弱く、家具や調度品にあたるという日常の所作で、鬱血し、ときに皮膚は破れた。キッチンに長時間立つこともかなわず、だから子どもの頃から炊事や掃除、買物の手伝いは僕の仕事だった。

「弱い母を守ろう」という子どもなりの気負いがわかり易いマザコンに転換なかったのは、病に冒されはしていたが、潜在している人間的な強度において、彼女はこちらの「母親像」を見事に裏切っていたからだ。

たとえば、5歳のとき、エレクトーンを習っていたのだが、月謝を払う日に「落とさないように」と言い含められたものの、教室に行くまでに落としてしまった。しょげて帰ると、家の前の道を箒で掃く母の姿を認めた。

おずおずと「お金を落としてしまった」と切り出す僕に、「だからあれほど言ったのに!」というが早いか箒の先を槍の切っ先に見立てたものか、腰だめにするや僕の鳩尾をエイとばかりに本気で突いてきた。
うっと唸るや前のめりに崩れ落ちる。「これは賤ヶ岳の七本槍にも加えられようぞ」と思ったものだ。

あるいは中学生の頃だ。家事を毎日手伝ってはいたものの、たまには自分のために時間を割きたいときもある。何かを頼まれた際、ぶっきらぼうに断った。

それまでまな板の上の食材をとんとんと快調な音を立てて切っていた母は、キッ!とでも言うような声にならない音を発すと(それはまるで荒木飛呂彦の「バオー来訪者」を思わせた)、包丁で僕の首筋を峰打ちした。したたかに打った。

そのとき僕は自分の理解を越えた異形さを感じたように思う。自分の理解の範疇にはない何かがとても身近にいて、それを家族と呼ぶことの不思議。

叔母に言わせると、「昔は朗らかで健康だった」という。
母はいまでこそ病弱になっていたが、かつて身に備わっていた体力が得体の知れぬ病に罹ってもなお、当時のままの気持ちを引っ張りあげようとしていた。ただ、いつ病状が変化するともわからぬことの恐れから、精神は不安定だったものの、張りつめたテンションは、か弱い母という弛緩した理解を僕に許すことはなかった。

よくも悪くも僕は女性にお母さんを求める気持ちに、ほんの少し距離感をもって眺められるようになった。
峰打ちのおかげだ。