オールドデリーのリキシャ

自叙帖 100%コークス

オールドデリーからニューデリーに向かう道の中途にある坂にさしかかるとリキシャは、老境にさしかかった男が立ち漕ぎを始めてもなかなか前へ進まなくなった。
並走する何台かのリキシャの漕ぎ手は僕の乗ったのよりも若かったが、それでも全身をあえがせていた。後部に座を占めるインド人は檳榔樹を噛みつつ平然としていたが、僕はいたたまれなくなり、リキシャを降りてしまった。

金を払う客がわざわざ漕ぎ手の助けをするのは、余計なことなのだろう。
彼が苦しもうが何をしようが関係ない。サービスを買った側は彼の使役をただ受け取ればいい。それがサービスの本義であるだろうし、そもそも客がサービスの担い手の助力などしては、彼の職業人としての面目を失わせることになるではないか。

そういったことを束の間考えたが、じりじりと照りつける太陽の下、眼前でほとんど脂肪のない背に玉のような汗が浮き上がり、それが筋となって流れ落ちる様子をただ静観することに耐えられなくなった。

念仏を唱える空也

インド人は彫りの深さゆえか、黙っていると哲人に見える面貌の持ち主が多い。
その実、いったん口を開くと「おまえのもっているペンをくれないか」「そのジーンズとこの服をとりかえてくれ」などと、物欲に関する言葉が空也像のように次から次に出てくるので、思索深げな様子などこちらの思い込みでしかないのだが、インド滞在から3週間も経つと、見かけの判断の基準をどこに置いたものかわからなくなってき、言葉が通じない場合の人間の量り方の難しさに行き当たっていた。

リキシャを漕ぐ彼もまた哲人のような面相をしていた。僕がリキシャを降りると驚くでもなく意外そうな顔をするでもなく、その目の色からうかがえるところはなかった。

「この外国人はバカじゃないだろうか。客なのにリキシャを押してやがる」とでも思ったかもしれない。

脆弱な自我を持て余している青春ノイローゼを爆走中の僕は、「あまり派手にリキシャを押しては彼の沽券にかかわるかもしれない」と、さらに勝手に妄想し、そっと座席を押す程度の助力をした。ようは何もしていないに等しい。リキシャは坂の頂きにいたった。

自分の彼を見る眼差しが、生活の実相を知らない根拠の浅い哀れみだとはわかっていた。かといって、ひ弱さを嗤い、否定することが健康であるというのは短絡に過ぎる。

いつも路傍に寝そべっていた男がある日の昼さがり、身動きしなくなったとき、ごった返すバザールの通行人と同様、僕は息を引き取った彼を道のあちらこちらにある牛の糞を見遣るように見た。

誰にも看取られることなく死んだ人をそのように見ることに慣れたのは、悲惨というものが日常のあらゆるところで顔を覗かせ、見慣れた風景になってしまったからだ。

これが生きていることの剥き出しの姿なら、なんと生は暴力的なのだろう。
そんなふうに思う一方、「現実とは常に悲惨なのだ」との了解の仕方が慣れから来る体感の鈍磨による割り切りなのではないかと思えてならなかった。

誰もがその生命を全的に輝かすことができる。
少なくともそういう建前を前提に、世の中を構成しようとしている国から僕はやって来た。

だが、インドでは敝衣蓬髪。垢を衣のように身にまとい、道を這い、落ちた食べ物をついばみと、この世の生まれたときからそのように行い、恐らく死ぬまでそれをする以外にないような人が多くいた。

そういった人の群れを見るにつけ、「この世に生まれる意味などない人もいるのではないか」という恐ろしい考えに行き着かざるをえなくなった。
誰が生まれるべきであるかの選別など僕ができようもないが、悲惨という道行き以外にない生き様にいったいどういう意味を見出せばいいのか。まるで見当がつかなかった。

間近に見ると絶句するような美しさを湛えている

シュリナガルからデリーに戻って以来、ガンジスのほとりの街、ヴァラナシ(現ベナレス)やボンベイ(現ムンバイ)、チベット亡命政府のあるダラムサーラ、タージマハルのあるアーグラと巡った。どの地も滞在してせいぜい2日という駆け足だ。

タージマハルは、ムガル帝国の国家財政が傾いたというのも肯ける、すばらしい建築物だった。遠近感を揺さぶるシルエットを空と地に延べ、細やかな技巧を随所に施した墓廟は、呆れ返るほど美しい。

絶大な権力があってのこの壮麗さだと感慨に耽っているそばで、枯れ木のように痩せた半裸の男がタージマハルの歴史を語るから銭を寄越せと手を差し出す。
タージマハルの創建から300年以上経っているが、この男のような行き方は300年といわず1000年も前からずっと繰り返されて来たのではないかと思うと、悲惨さの捨て置かれ方と白亜の建物の美の、どういった像も結べないコントラストに目眩を覚えた。

「ここではないどこかへ」と現に生きてしまっているこの理由のわからなさに炙られて日本からインドへやって来た。
だがインドに来てもなお僕は、「ここではないどこか」に答えがあるように思えて右往左往した。

眼前にいつもいつも目にする、人間の生命の絶対的な不平等さと悲惨さを理解できるような、大きな解答を求めていた。見晴らしのいい高みから一挙に眼下に広がる光景を眺められるような、そんな望楼にはやくはやく登りたかった。

リキシャはニューデリーに着いた。運転手に払う小銭がないことに気づくと、僕は「ちょっと待って」と彼に言い置き(「チョットマテ」は現地で通じた日本語だった)、近くのスタンドまで駆け、セブンアップを2本買い、紙幣を崩すと取って返した。

一本を彼にぐいと押し付けた。「暑いし、喉が乾いているし、せっかくだから2本買ってきた」と日本語で話した。

そのとき初めて彼の表情が動いた。綻んだわけではない。笑うような戸惑うような顔の崩れ方だった。