ラッシーにハマる

自叙帖 100%コークス

先日、吉祥寺にある小憎らしいまでにお洒落で、きっと店長はネパールでオシャレ番長として鳴らしたであろうと思わせるサジロカフェのシークカバブに舌鼓を打っていたら、インドではほとんど肉を口にしなかったことを思い出した。
貧乏旅行なので毎日毎食チャパティとダール(豆のカレー)のみ。ナンなんてトンでもない。お腹はいつも空いていて、マンゴーかチャイを食べて空腹を紛らわすことが多かったが、それで満たされることはなく、僕はどんどん痩せていった。

前回も書いたが、「生きてるってなんだろ」の思い炸裂しまくりで、シュリナガルからアーグラ、ボンベイ、ベナレス、ダラムサーラへと何のあてもなく向かい、汽車と長距離バスを乗継ぎ一昼夜かけて街へ着いたと思いき、「俺の求めているものはここにはない!」というようなわけのわからん煩悶と懊悩に駆られ、チェックインしたばかりの宿を引き上げ、また汽車とバスに乗って一昼夜かけてデリーに舞い戻ったりしていた。

汽車は三等車で木のベンチが剥き出し、バスはスプリングがないも同然で、ために悪路の凸凹をすべて拾い上げて脳髄を突き上げるような衝撃が絶え間なく襲う。そういう日々を過ごすうちに、微熱が出るようになり、そんなときは食欲があまりなくなった。

少し体調がよくなると空腹を感じる。ただ、何か食べたくても、もうダールとチャパティを見るのはうんざりしていた。
そこで代わりに食べていたのは、秘伝のタレよろしく黒く淀んだ油で、オニオンリングよりちょっと大きめのサイズに揚げたドーナツだった。

油を替えたことがあるのかと尋ねるのも怖い、見るからに悪い油なものだから、揚げたてのサックリ感はむろん皆無だ。たっぷり油を含んだそれをこれまたドギツく甘く、粘っこいシロップに漬けるのだから、ドーナツふたつばかりを口にすれば、一日何も食べなくて済む。ドーナツ自体はたぶん10円くらいだったはずで、これで満腹になるのでたいへん経済的だが、胸焼けするのは必定だった。

そこで食後の清涼感を味わうため飲み始めたのがラッシーで、街角の店の出すラッシーがあまりにうまいので、ドーナツを食べようが食べまいが、とりあえず目が覚めたらラッシー屋に通うようになるくらいハマった。
僕が通っていた店は、地元の人にも評判なのか行列がいつもできていた。従業員も6人くらいおり、店の中に大きな寸胴がいくつもあって、そこからラッシーを汲み出していた。

ある日、いつものように朝起きて店へ行き、ラッシーを飲んでいたら、店の小僧がコップを路面に持ちだした。

はて?と思い、彼を見ていたら、おもむろに地面の水たまりににコップを突っ込むと洗い始めた。
アスファルトなんて敷かれていないし、そばには牛や犬、たまに人間の糞も見かける路面で、日本でそういう光景に出くわしたら飲んでいたものを噴き出すところなんだろうけれど、1ヶ月もインドにいると、食べ物が糞になるという自然な因果関係からすれば、両者につながり具合を見てとっても、それをただちに「不潔」という語でもって見ないという作法を身につけていたと見え、自分の飲んでいるコップが動物及び人間の糞が混じっているかもしれない水たまりの汚水で洗われたとしても、「ふーん」としか思わず、そのままラッシーを飲み干した。

日本の生活環境からすればインドのそれは不潔、不衛生極まりないだろう。
食堂のトイレの足の踏み場のなさときたら筆舌に尽くしがたいものがあったが、だからといって「さすがカオスの国」ともちあげているのか貶めているのかわからないまとめ方をするのも何か違う。
加えて「文化の違い」と言ったところで、その隔たりについて何も説明していないのに等しい。

店員の少年が汚水でコップを洗っているのを見て以来、その店でラッシーを飲むたび考えた。この国で目にすることを「衛生概念の欠如」と言っていいのかわからないことだけは確かだった。

街中で水浴びし、身体を清潔にしようとする人をいつも見かけた。ヒンドゥーの寺院やモスク、聖なる場所が街のあちこちに露出していて、人々はその場に応じて身を慎んでいた。
ということは、清らかさと穢れを線引きする感覚が明らかにあるということで、ただ、それが僕が日本で身に付けたような衛生にまつわる観念の尺度と違う。

寸法が違うというより、物差しそのものが違う。その違いを「人それぞれ」みたいな風に、文化相対的に捉えるのも何か違う。

「人それぞれ」って便利な語で何にでもくっつけられる。違いについて考えることを煩わしいと思うときに頻繁に使われがちだから、警戒したい言葉遣いだ。

それはさておき、そうして毎日ラッシーを飲んでいるうちに微熱のほかに鼻の奥、頭の中が痒いような感覚が起きるようになった。くしゃみが出そうなむず痒さを脳に感じるような。
そうこうしているうちにどうにも遠近感がおかしくなってき、まっすぐ歩いているつもりでもどうも横にそれてしまうようになった。