頭の中がかゆいんだ

自叙帖 100%コークス

存在とは何か。生きるとは何か。
インドくんだりまで来たのだから、答えらしきものが見えるかと思ったが、その問いはいっそう濃く重くなるばかりで、僕からまったく離れず、悩みが霧消し、身が軽くなる気配はまるでなかった。

「如何に」「どのように」といったノウハウで当座のやり繰りどころか人生のすべてをまっとうすることを、「存在すること・生きること」だと捉えている向きには、それらは鼻で笑われるような青臭い疑問だろう。

なぜ?に貫かれた問いは答えを求めないところがあって、答えに思えるようなことも新たな問いだったりする。
延々と問いだけが立ち続ける。そのような試みを無用の長物と思う人は、いつの時代にもいるが、バブル経済の頃はそういう傾向がもっとも高まっていたように感じる。いまでは死語だろうが、本質的な問いを発すると「ネクラ(根暗)」と蔑まれたものだ。

経世済民ともオイコス・ノモスとも関係のない、矮小化された「経済的」とやらがあらゆる領域で顔をのぞかせ、幅きかせる時世にあっては、すでにある現実に沿って生きさえすれば、ローンに苦しむとかはあっても、特に問題のない一生を終えることができた。そのほうが認知コストのかからない経済的な生き方ができるというわけだ。

事実、僕らの前に提示された世は、パンとサーカスの日々だった。「一期は夢よ ただ狂へ」とばかりに。
しかし、閑吟集にしたためられたその歌謡の奏でる断念と異なり、昭和から平成にかけての乱痴気騒ぎには、諦観は皆無だった。現実はのっぺりとした遊興に沸き返っており、それがいつまでも続くと思われていた。

だが、その現実は「私の思う、私にとっての現実」であって、「そうあれかし」という願望と違わない代物だ。
そも願望を現実と取り違えることを妄想というのではなかったか。その区分も確かではない時節だった。

であれば、バブル崩壊後の泥濘を行くような日本経済にあって、従来の右肩上がりの生活設計はとうてい不可能になりはしても、その価値観を体得することをもって認知コストを下げてきた僕の同世代は、そうとう肝を嘗めたことだろう。

長期的に見て、損をしないために「存在とは何か。生きるとは何か」を考えるべきだと言いたいのではない。そもそも損得ではかれる問題でもない。

いつの時代にも本質的な問い、思索を軽んじようとする力が働く。不都合な事実を白日のもとに曝されたくない人にとっては、特定の教えを学ぶことをもって教育とみなす。
効果的な教育によって理解力にすぐれた人は生まれるだろう。だが理解力の特化は判断力のなさを証もしよう。

あらゆる事柄に答えがあると思える人。たとえば、「生きるとは何か」が愚問に思える人は、愚かしくはない答えをもっているはずだ。
だが、もしも生きることについて答えをもっているのなら、なぜその人はいまなお生きているのだろう。

答えとは、問いが視野に納めたプロセス全体を情報の次元を落として簡略化したものであり、つまりは生きることが何かわかれば、生きなくてもいいわけだ。

池に小石を投げ込み、10秒にどのような波紋を広げるか。これを計算するのは不可能に近いような困難な問いだ。
これに答えめいたものがあるとすれば、小石を投げ入れてから10秒間、観察することだという。

存在に対する答えが何かわからないから生きてみる。生きてみるほかない。

インドにいた頃、そのような生の方針みたいなものもなく、ただ安宿の壁に向かってうずくまり、「生きるとは何か」についてああでもないこうでもないと頭を悩ませるだけで、陰鬱な気持ちを晴らそうと往来に出ても、まったく気分は晴れなかった。

あるとき、いつものように雑踏の中を歩いていたら、遠くのものと近くのものの違いがなんだかよくわからないような気分になってきた。
遠くにある建物や人が「遠くにある」という実感をまるで伴わない。遠くも近くもなく、なんだか自分を取り巻く光景が異様に平坦で、芝居の背景画みたいに思えてきた。

そうして鼻の奥が痒くなってき、最初は排気ガスやひどい砂塵のせいだと思い、鼻うがいなどしていたのだが、そのうち鼻のもっと奥、頭の中としか言い表しようのないところに強烈な痒みを覚えるようになった。
隔靴掻痒ならば靴を脱げばいいが、頭はそういうわけにはいかない。加えて微熱が出て、座るのもしんどく、横臥してちっとも気分はよくならない。

原因については、あまり食事もとらず、ただラッシーだけを飲んでいたため、「栄養が足りていないのかな」くらいの認識だった。好物のラッシーすら口に入れるのも厭う気分が募り、仕方がないので街中の薬局でビタミン剤を注射してもらいもしたが、いっこうによくならない。

やがてまっすぐ歩いているつもりで、どうも横に逸れるようになってきた。それを見たバックパッカーのアメリカ人が「どうした、顔色が悪いぞ」と声をかけてきた。そういうものか?とインドに来て初めて鏡を見たら、黄色くもどす黒いという面妖な風貌になっていた。

寝てば治るだろうさと回復を期待したが、数日経ってもよくならない。それどころか呼吸も浅くなり、起き上がることがいよいよつらくなってきた。さすがに病院に行ったほうがいいい。リキシャに乗って「地球の歩き方」に書いていた国立病院へ向かうことにした。

そのあたりから記憶が曖昧だ。露地をすれ違う際、向こうからのリキシャに乗ったイギリス人と思しき男性が声をかけてきた。「どこへ行くんだ」と。僕は座席から身を起こすのもしんどく「病院へ」というと、「インドの国立病院はやめとけ。それよりビレンディン・ホスピタルへ行け。そこはすごく丁寧だぞ」。

僕には「ビレンディン・ホスピタル」と聞こえた。いまとなってはそれがどこにあった病院なのか全然わからない。リキシャの漕ぎ手に「ビレンディン・ホスピタル」というと目をつぶった。病院につく頃には容態が急激に悪くなり、受付に這うように向かい、この期に及んで僕は栄養失調から来る風邪だと思っていたらしく、点滴を打てば大丈夫だろうと踏み、ただアホのように“I want a glycogen”を連呼した。

願い通り、ブドウ糖の点滴を打たれた。その途端、これまで経験したことのないような高熱が一気に出た。たぶん40度を超えた。