出口王仁三郎について

雑報 星の航海術

先日、出口汪さんと甲野善紀先生の対談の司会を務めることとなった。

出口汪さんと言えば、予備校講師時代には「現代文のカリスマ」と呼ばれ、その経験をもとに「論理エンジン」という日本語の読解力を飛躍的に向上させるシステムを開発され、現在は執筆業のかたわら出版社も経営されている。

甲野先生については、いまさら説明する必要もないだろうが、古の日本人の身体操作の研究を通じ、「人が生きるとは何か」「自然とは何か」といった探求をされている方で、僕も一時期は門下生として稽古していた。

出口さんと甲野先生との縁は、大本教においてのつながりという点ではるか前に予告されていた塩梅がある。

大本教といえば、開祖出口なおのこの御筆先で知られる。

「三千世界一度に開く梅の花艮の金神の世に成りたぞよ。(略)三千世界の立替え立直しを致すぞよ」。

出口なおとともに活躍したのが教祖、出口王仁三郎。つまり出口汪さんの曽祖父にあたる。

昭和初期に800万人の信徒を従え、民衆から知識人や高級官僚、軍人、華族まで絶大な影響を与えた大本教は、「立替え立直し」という革命思想ゆえに天皇制と鋭く対峙し、戦前、治安維持法、不敬罪により苛烈な弾圧を二度にわたり受けた。
また王仁三郎の現人神の戯画化にも見えるトリックスターぶりは当局の敵愾心を煽ったであろうことは想像に難くない。

王仁三郎が残した遺産はその発した言葉の膨大な量もさることながら、生長の家、世界救世教をはじめ日本の新宗教で大本を淵源としないものはないと言われるくらい、絶大な影響を及ぼしている。
その表に見えるところのみではなく、裏にも目を向ければ、現代日本の精神史の別の相貌も見えて来るのは間違いない。

それほどの深い感化を与えながらしかし、王仁三郎の核心となる教えがいかなるものだったのかは、つかみどころがない。
ときに一日に口述筆記の分量が原稿用紙500枚近くに届いたと言われるくらい、語られた事柄は豊穣であったが、一義的な解釈を許すような甘い言説ではなかった。

巨大でありながら虚ろにも見える王仁三郎。親族の中には、王仁三郎に対する距離の取り方を見誤り、人生を大きく狂わせた人もいる。

出口汪さんはどうかといえば、宗教家の道を歩むことを拒否し、別の世界で生きてきたのだが、昨年実家が消失し、地中からさまざまな王仁三郎の遺品が出土した。火事の難を逃れたのが不思議なくらい、完璧な姿で残っており、私もその一部を見せていただいた。

実家は最晩年の王仁三郎が過ごしたのだが、親族も知らぬうちに密かに遺品を土中に埋めたものと思われる。
自身の家の宿命から逃れてきた出口汪さんだが、こうした邂逅に「逃げられない運命なのかな」と漏らした。

さて、甲野先生と大本の出会いについてだが、29歳で道場を発足させる前後の「灰色の20代」、熱心に読んでいたのが小説『大地の母』だったそうだ。これは大本教を舞台とした小説で作家は出口汪さんの父、出口和明氏だ。

そうしためぐり合わせからふたりが話をする運びとなったわけだ。

対談の中で私がもっとも感じ入った話がある。

それは王仁三郎がいずれ自分を裏切るであろうとわかっている人物たちを抜擢重用し、存分に働かせようとしたこと(その時点において、その人物たちの信仰心は何人にも劣らぬものであり、当人もゆめゆめ自分が裏切りを働くようなことになるとは想像もしていなかったかもしれない)。
そして、身内や親しいものが辿るであろう過酷な運命ー投獄、拷問死、自殺ーを知りながら、確定したシナリオを実行するかのように、大本教を破滅へと急がせようとした振る舞いが随所に見られたこと。

大本には、「大本は日本のひな型」という発想がある。つまり大本教に起こることは、日本の行く末を示すと。その伝でいえば、大本が進んで罪業を背負うことによって、日本に起こりうることを最小限に留めるという考えも成り立ちそうだが、その理非について明らかにするようなことは、私の手にあまる。

ただ、個の身が粉砕されていくような過酷な運命がたとえ待ち受けていたとしても、それを越えたところを見つめる眼差しが王仁三郎に確かにあったであろうことで、その精神の底の見えなさ、計り知れなさに愕然とする。