デリーで迎えたバブル崩壊の日

自叙帖 100%コークス

10日あまり寝込んだ末、ようやく上半身を起こせるくらいの元気さは取り戻した。
あれほどまで自分を包んでいた煩悶憂慮が雲散霧消していたことに驚いた。

窓から射しこむ明かりに、なんとなくこの先の希望を感じ、気持ちが高揚した。
しかし、わずかに身を起こしたくらいで、翌日には腹筋が筋肉痛でひきつれ、背筋を立てることも難しくなっていた。
日本で毎日のようにボクシングに勤しみ、完全に割れていた腹筋は跡形もなくなり、肩も胸も細くなり、寝ていただけですっかり筋肉がなくなっていた。

回復に合わせ、食事は粥やヨーグルトから次第にカレーやパンが出されるようになった。加えて滋養のためか看護師はバナナやマンゴーを食後のデザートに付けるようになった。
僕は遠慮なく食べ、時におかわりも所望したが、実はこれは食事代として加算されていたことを後に知る。さらに後に知ったのだが、僕が駆け込んだ病院はよくよく見れば、隣にゴルフ場があるなど金持ちが行く病院であった。だからといって、この病院を教えてくれたイギリス人を恨むわけにもいかない。

定期健診の際、医師はレシートを持ってき、これまでの入院代を僕に見せた。「本当に払えるの?」という不安顔とともに。
実は今回の旅行でいっさい保険に入っておらず、合計金額を見ると日本円にして13万くらいになっていた。一日の食費が100円くらいで済ませられることを思うと、相当の金額だ。貧乏旅行の身であれば、そんな金はもちあわせておらず、仕方なく父に無心することとした。

それにしても10日余の入院は自分でも想定しておらず、ゲストハウスに荷物を入れっぱなしであった。荷物の引き上げと国際電話をかけるため、久方ぶりに外へ出たが、階段のわずかな高低差が足をあげることも困難な切所となっており、さらには道端の牛糞を避けるべくジャンプしようとしたところ、地上1センチも飛び上がれなくなってい、そのまま足を糞に突っ込むこととなり、しばし呆然とした。

往来のオートリキシャを止め、よろよろと座席に上がりこみ、ニューデリーのメインバザールへ行ってくれるよう運転手に伝える。
しばらくすると、運転手は「おまえ、そうとう具合が悪そうだが、どうしたんだ?」と話しかけてきた。

「病気で入院していたんだ」
「そうか。たいへんだったなぁ。身体は大事にしなきゃな。ところで話があるんだが」
「なんだ?」
「いま、ドルがけっこういいレートで取引されてるんだ。オレの知り合いを紹介してやるよ」

運転手は闇の両替を勧めてきた。
僕は自分の左手に差し込まれた点滴用の留置針を運転手に示し、「これを見ての通り、いまはそんなことにかまける余裕はないんだよ」というや、運転手は気色ばんだ様子で、こういうのだ。

「せっかくの親切で言っているのに、おまえはなぜ両替をしないんだ!」

それから彼はぶりぶり怒りながら、再三再四両替を迫ったが、僕はもう会話を続ける体力もなく、黙り込んだ。

ゲストハウスに着くと、宿代を精算する。このどうということのない手続きだけで疲労困憊してしまったが、国際電話をかけるミッションを果たさなくてはならない。

当時のインドでは、まだ携帯電話はなく、公衆電話から国際電話をかけることもできず、したがって国際電話専用の局まで出向かないと日本に連絡はとれなかった。ゲストハウスから100メートルばかりの道のりを行くのはたいへんな苦行だったが、どうにか行き着き、日本へ電話をする。

父の第一声は「生きていたのか!」であった。聞けば、僕は行方不明として在インド韓国大使館に捜査依頼が出されていたという。

その話を聞いて改めて思ったのは、何か自分の身に起きたとき、大使館に保護を求めて駆け込むのだろうが、僕の場合、韓国大使館に行ったところで会話ができない。
ならば日本大使館はどうか。確かに意思の疎通ははかれても保護は望めないだろう。インドというような一見、現世的、行政的な秩序の縛りが緩やかに見える土地で(むろん、この体感はツーリストのものだが)、「自分のナショナルアイデンティティーについての考察を求められるとはな」などと思っていたが、肝心の用件は金の用立てであったから、「入院費が払えないから送金してくれないか」と父に伝えた。

父はこう返した。「いまはそれどころじゃない」と。

「今日、株が大暴落してな。家が抵当に入るかもしれん」

そういうビンゴな瞬間を僕はよく引き当てる。
僕が電話したその日、まさにバブル崩壊の日で、いささかのめり込むところのあった株で父は大損失を被った。

電話局を出て、インドの真っ青な空の下を歩いていたら、身の内から哄笑が漏れてきた。
なんだかわからないが、「ざまあみろ!」と言いたくなった。

自分の享受していた豊かさなど続くはずがなく、この浮かれた世などいずれ色褪せる夢幻であり、栄耀栄華も跡形なく滅びるのだ。幼い頃から抱いていた思いがいささかも誤っていなかったことに、僕は欣喜雀躍、手の舞い足の踏む所を知らずを地で行くような気分であった。

たとえ神戸に帰り、家が抵当に入っていたとしても、人間世界の欲得よりも「風の前の塵に同じ」といった歴史の法則性の貫徹に自分が立ち会えた喜びのほうが強かった。

ま、それはそれとして先立つものは金であり、入院費は難してくてもとりあえず帰国のチケット代を送ってもらうことにしたのだが。

なんだか気分がよかったので、金もないのに散財したい心持ちになり、当時のインドでは高級店であったファーストフードのハンバーガー屋に寄り(店の前にはガードマンがいて客を選別する)、羊肉のハンバーガーをがっついた。パサパサとしたバンズと肉のハンバーガーが妙にうまく感じた。