プライドと偏見

雑報 星の航海術

この世に生まれ落ちた瞬間から破れていかざるを得ない人、ひしがれ、地べたを這うようにして生きざるを得ない人がいる。
どれほど努力をしたところで、運命の歯車に挽かれ、砕かれざるを得ない人がいる。

生の不公平さに、どこか不正な匂いを嗅ぎつけたとき、僕は運命とやらに歯噛みする思いをした。

日常を送っていると、生活の安定を保障してくれている制度が現実そのものだとつい勘違いしてしまうが、いくらそれが堅牢に思えても、法の言葉によって紡がれたものでしかなく、天変地異が起これば雲散霧消してしまうような、剥き出しの暴力の前にはあっけなく崩れてしまう。何ら僕らの生を根底から支えるような代物ではない。

暴力は至る所に遍在し、暮らしの裂け目から滲み出している。それに浸潤されて生きざるを得ない人たちがいる。
そうして「おまえの生まれ落ちたことに何の意味もない」と思わされた人生は、誇りをもつことも強くあることもできない。

先日、アラスカのネイティブ・アメリカン「クリンギット族」のリーダー、ボブ・サムさんを囲む集いが都内で行われ、参加した。

知識の上で知っているネイティブ・アメリカンの置かれている状況は断片的で、たとえば自治はあっても伝統から断絶した生活は、彼らのアイデンティを脅かしているといったものだ。

伝統と無縁の現代的な生活に馴れたところで社会的地位の上昇を望めず、地歩を固められず、どこにも歩みを進められない暮らしの中で自死を選ぶ人、アルコール依存で精神を破壊される人も多いと聞く。

ボブさんも若い頃にドラッグとアルコールに溺れたという。
彼がその手の“現代的な暮らし”から足を洗ったひとつのきっかけは、宅地開発で先祖の墓が荒らされ、骨が散乱した様を見たことにあったという。
そのときの怒りについて、彼は多くを語らなかったが、白人社会を、そしてその文化と骨がらみになりつつある自分たちの置かれた状況をさぞ呪ったことだろう。

それからの20年間、彼は荒らされた墓を整理し、散逸した骨を拾い、先祖の霊を祀り、慰めることを黙々と行なってきた。そして、長老たちにクリンギット族の神話の語り部になるよう諭された。

僕らの目の前で彼はクリンギット族に伝わる世界に生命の火が灯された話をし、祈りを捧げ、舞った。

伝承によれば、クリンギット族を象徴する生き物のひとつワタリガラスが鷹の助力のもと、枝に灯した太陽の炎を世界のあらゆるところに運んだ。そして光が地を覆い、木々は芽生え、生命が萌え始めた。

神話が生まれたのはいつのことかわからない。千年、万年前かもしれない。

起源の見えない時間を経た物語を伝承する彼を、車の繁く行き交う街に案内するのは、どこか自分の恥部を見せるような後ろめたさを感じた。
現代文明にひしがれ続けた彼らの来し方に思いを馳せるにつけ、胸に痛みを感じたが、彼の軽い足取りを見るにつけ、思い出したのは若い頃に薬と酒に溺れた経験があるということで、ボブさんには僕が思うような脆弱さはなく、もはや一方的にやられないだけの耐性をもっているのだろう。そんなふうに感じた。

彼は僕に「誇り高く、強い人間だ」と言った。

僕はその反対に位置すると思ってい、加えて誇りを高慢さと捉え、警戒するあまり、いつのまにか誇りとやらに距離を置くようになっていた。そして、その距離に生じてしまったのは、言い訳と自己正当化を自らに許す弱さだった。

なぜ彼が僕にそういったのかわからない。
ただ、墓を守るという孤独な作業の中で怒りに飲み込まれず、自分を苛む運命を呪わず、しかし屈さず、成すべきことを成してきた歩みを思うにつけ、誇りや強さは他人からの承認を要さないのだと気づかされた。

そして、彼はこうも言った。
「魂について語ることを怖れるな」。

その言葉を受け、僕は気高くありたいと思った。アラスカへ、いつか行ってみよう。