家人の信仰

自叙帖 100%コークス

インド滞在中に「実家が抵当に入るかもしれない」と父に聞かされたが、幸か不幸か災難を逃れることができたようだ。しかしながら帰国早々、生活費としてもらっていた小遣いを半額の5万円とする旨を伝えられるなど、バブル崩壊の影響は濃かった。

減額された小遣いの最初の使い道はいっこうに回復しない体調の検査で、インドで書いてもらったカルテを片手に病院を訪ねた。それを見るなり「インドといえばコレラ、赤痢と相場は決まっているのに髄膜炎とは珍しいねぇ」と医師に言われ、「へ?」と聞き返してしまった。

脳天気にもてっきり栄養失調とひどい風邪が重なったくらいに思っていたのだ。
医師に聞いたところによれば、背骨に注射針を挿して何やら抜いていたのは、髄液の検査で、「半年に1、2回程度が望ましい」のだそうだが、僕は10日あまりの入院で都合3回くらい抜かれた。そりゃ体力も抵抗力も落ちるはずだ。

でも、そんなことより驚いたのは、インドに行っているあいだに両親ともに「エホバの証人」に入信していたことだ。この唐突な展開に僕は身体ごと?マークになりそうになった。

かねて「神について知りたくはありませんか」と訪ねてくる人たちがいた。僕はインターホン越しに「間に合ってます」と無愛想に応対していた。母も丁重に断っていたものの、おしゃべり好きな人だけに世間話にはつきあっていたそうだ。

僕がインドへ行く以前、母は肝機能障害で数日入院したことがあるのだが、実は経緯はわからないものの、エホバの証人の人たちが見舞いに来てくれたそうだ。
そこで「どうしてこの人たちはよく知りもしない人のために誠意を込めた行動ができるのだろう」と思い、興味をもったのだという。そして聖書に関する話を聞くようになったそうな。額に手を当てて、「なんたるイノセンスさ!」と慨嘆したくなる。

父はそのことを知り、「何をつまらないことに騙されているのだ」「あんなものは心の弱い人間が信じるんだ」と怒ったらしい。
がしかし、あるキーワードをきっかけに態度が変わった。それは“復活”の二文字だった。

父の青春は赤旗を振り振り、共産主義の信奉者として人々をオルグすることに捧げられ、いずれ「地上の楽園」と喧伝された北朝鮮へ行くことを夢見た。
しかしながら、父子間での権力の世襲という世界に類例を見ないおぞましい光景を目の当たりにし、日本で生きていくことを決意した。そのときから資本主義のルールに則り、パワー&マネーを目指すことを誓い、プチブルジョアの地位を確保した。

なおのこと、ここに来てのエホバの証人というキリスト教原理主義を選んだことに、「どういうホップ・ステップ・ジャンプやねん!」と激しく突っ込みたい気持ちが間欠泉のように吹き出した。
「崇める対象が共産主義、資本主義、神にすげ変わっているだけやん。それは回心ではなく、転向やろ」。そう思えてならなかった。

そのような息子の視線を感じたか、父は例のごとく話があると僕を呼びつけた。父は自分の選択を理解して欲しいようだった。
だが僕は彼の心情を察することから始めるのではなく、エホバの証人の唱える三位一体の否定は、325年のニカイア公会議で却下された異端に過ぎないこと。聖書に書かれたことをそのまま信じるという、一見、すべてを神に委ねる敬虔な行為に見えて、実は神に依存しきった怠惰な態度に過ぎないこと。そして、何があったかが知らないが、「そんな程度の教えに心の隙間を埋められてんじゃねぇよ」という言葉を吐いてしまった。

不思議なことに、心の隙間を見せなかった父は僕にとってはスサノオそのものの、およそ人間的な会話のありえない、言葉を交わすことは熱した鉄に触れるような存在でしかなく、弱さを見せるほうが人間的なはずだったのだが、なぜか僕はスサノオであり続けることを希求したのだ。

父はこう返した。
「おまえは生みの母親に復活して欲しくないのか。俺は復活して欲しい」

最後の審判の後、死者は再び蘇り、善行をなしたものは永遠の生命を授かるという。

「うわ、そう来たか」と絶句した。まさか亡くなった妻の復活希望!というカウンターを喰らうとは思わなかった。
というか、あなた再婚してますけど?その思い、いまの彼女は知っているんですかね。

復活の二文字に僕は実母の納骨の際に骨をバリバリと食べた光景を思い出した。現にこうして結婚生活を送りながらも、孤絶感を日々募らせていて、「それはおまえの勝手だろう」ということもできるが、断念できない思いがある。その事実は拭いがたく厳然と存在する。それを他人が否定することはできない。いかな息子の立場からとはいえ。

僕は「そうか」とだけ答えた。以来、父母の信仰については否定も肯定もしないことと決めた。