華やいだキャンパスの裏で

自叙帖 100%コークス

関東圏に住んでいる人には馴染みがないだろうが、僕の通っていた関西学院大学は、地元ではキャンパスの異様なきれいさ(のみ)で有名で、学費のほとんどは、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの手によるスパニッシュ・ミッション・スタイルの学舎のメンテナンスに費やされているのではないかと、学生間で噂されるほどの手の入れようであった。

中央芝生から望む図書館

新入生が溢れかえる春期に復学をしたため、キャンパスは華やいだ気分に包まれていたが、そのようなウキウキした気分と華麗さを誇るキャンパスにはまるで似つかわしくない、殴り書きされた文字を壁やエレベーター、トイレといった場所で目にする。グラフィックアートではない。

4月といえば“チョンは死ね”だの“エタ、非人を殺せ”といった「差別落書き」をキャンパスで大量に目にする季節でもあるのだ。

昨今ではそういう文言もネット上で見聞きしているせいか馴れている人も多かろうし、むしろその手の罵詈を実社会で口にすることに躊躇いを覚えない人もちらほらいるようだが、そうした傾きからすれば、“チョンは死ね”だの“エタ、非人を殺せ”などの文言に特段の違和感、痛痒も感じない向きもあるのが当世なのかもしれない。

そのような言動を「ヘイトスピーチ」と言い、最近では世間に知られるようになっている。ヘイトスピーチという語を口にするたびに、僕は苦い唾が口中ににじみ出る感じを覚える。

憎悪に満ち満ちた呪いの言葉を「ヘイトスピーチ」といった一般的な概念に丸めることで、目の前で起きている事態についての共通認識は生まれるという効能はあるだろう。
けれども、「問題は確かにある」という事実は明らかになっても、非道さの解決に向かうよりは、「問題がある」という所在の確かさが流通するだけの通りのよさを獲得してしまっているのではないか。そんなふうに思ってしまう。

隣にいる人が小突きまわされ、殴られているときに、それがなぜ起きるのか? どのような社会のシステムがそんな暴力を生んだのか?についておしゃべりするより、助けるほうが先決じゃないか。
具体的な行動だけが大事だと言いたいんじゃないけれど、具体的なことを開始しない限り、何も始まらないのも確かな話で、心地いいサロンでの語らいに覚える、世界を変革した気になれる高揚感も好きだが、それだけじゃ遊戯と一緒だとも思っている。

差別落書きを目にするのは毎年のことで、だから澄ましたキャンパスの裏の顔が垣間見える季節の風物詩みたいに思っていた。暇な奴もいるもんだなと。けれども1992年の春に目にした落書きについては、そんなふうには思えなかった。

ある日、壁にでかでかと「おまえらもう一度慰安婦にしてやろうか」と書きつけてあった。

慰安婦については「もともと売春婦だった」「強制ではない」といった論の証立てを声高に言うものがそこかしこにおり、そういう言説になにほどか言うと、それこそヘイトスピーチまみれの文言を嫌というほど聞くはめになる。

しかしだ。この場合、書き手は「もう一度」と言っていた。
特定の集団を性的に蹂躙することを是としているその考えに、怒髪は天を衝いた。

その場に書いた人間がいたら、中高一本拳で急所のひとつ、鼻の下の“人中”を突いていたんじゃなかろうか。あるいは雪崩式フランケンシュタイナーを浴びせていたかもしれない。

暴力に暴力で対抗するのは愚かなことだ。確かにそう思う。

しかし、「暴力に暴力で対抗するのは愚かなことだ」と記述してしまえるのは、切羽詰まった事態から自分を括り出してしまえる、距離をおいて眺められるという余裕があるからこそだろう。本当に問われるべきは、「愚かなことだ」と断じてしまえる見識の高さよりも、当事者になったとき、心からそう思え、実践できるかどうかだ。

だからといって、僕は愚かしさを認めつつ、暴力をときに振るうことを是とする態度を貫くことが、暴力を行使する際の「覚悟なのだ」と、まるで葛藤のないつるりとした考えの信奉者でもない。自らが愚かさに堕していく弛緩を覚悟などと呼びたくないからだ。

2000年代に入って、ヘイトスピーチを見聞きする機会が格段に増えた。この先に不安を感じることもある。友人、知人の中には将来降り掛かってくるやもしれぬ暴力を前に、「生き延びる」ことを念頭に暮らしていかなくてはならないことに怯えを感じている人もいる。

暴力に暴力で返すことは愚かだ。
だが、主体性を放棄して、無為無策にただ受け入れることも愚かなことだ。だから、たとえばクラヴ・マガみたいに、ナチに心酔した暴漢から身を守るために開発された暴力の体系の創出を否定できない。けれども、この技術がパレスチナの圧制に使われるのは愚かなことだと思っている。

暴力は特殊な力の発露ではない。状況さえ整えば、誰もが安易に振るえてしまえる。他人を打ち殺してしまえる。だからこそ殺さないでいられるかどうかが、人間的な振る舞いとして問われるところなんじゃないか。

僕は考えた。日毎に増していく落書きに激憤しつつ、書き手を捕まえてボコボコにすればそれで問題は解決するのかと。そうしたい気持ちも正直あった。けれどもそんな安易なことだけはしたくなかった。だから、とりあえず落書きの横に返事を署名入りで書いた。

「言いたいことがあるなら旧学館の朝鮮文化研究会の部室に来い」と。
数日後、自宅に脅迫電話がかかり始めた。